2.母の来訪
田上さんはこれまた丁寧な手つきでコーヒーを淹れてくれた。せいぜいインスタントコーヒーをお湯で溶かすだけの私とは大違いだ。
くるくるとケトルを回しながら、田上さんはまだ何かを考えているようだった。
「お砂糖とミルクは?」
「あ、ミルクだけ」
ちゃんとしたコーヒーならブラックで飲む方がいいのかもしれないけど、苦手なんだからしょうがない。
あと、この家なら必ず牛乳があるし。
カフェオレになったものを、田上さんが私の前に置いてくれる。日頃あんなに牛乳を飲んでいるくせに、彼の分はブラックだった。
ふわりと、コーヒーの香りが立ち上る。それを一口飲んでから田上さんは言った。
「来週うちに来ると母から連絡が来まして」
「それは」
私は田上さんの感じる悩みの大半を理解できた、と思う。
ほどほどの歳の独立した子供にとって、母の来訪ほど恐ろしいものはない。これならまだ怪獣の方がマシだと思えるぐらいだ。
「田上さんのお母さんは、」
田上さんは吸血鬼の子孫で、具体的にはひいおじいさんが吸血鬼だったと教えてくれた。
つまり、お父さんかお母さんは四分の一ということになる。田上さんよりも吸血鬼の血が濃いわけだ。
けれど、どちらがそうなのかは私は知らないのだ。
人間なんですか、と聞こうとしてあまりにも不躾だったなと私は口を噤んだ。
「いえ、島崎さんがお気になさるのは当然のことだと思います」
田上さんの青い目が、真っ直ぐに私を見る。
「母は、四分の一の吸血鬼です」
「へえ」
つまりこのデミグラスソースもかくやという濃いめの顔立ちも、お母さん譲りということなのか。田上さんの歳からすると五十代ぐらいだと思うけど、きっと相当な美人だろう。
「すみません、島崎さんにもきちんとお伝えしようとは思っていたのですが」
田上さんが途端に申し訳なさそうな顔になる。見るからに立派な体格の男が項垂れているのはなんだか気が引ける。
「そんなそんな、いいですよ」
まるで雨に濡れたゴールデンレトリバーみたいだ。私は慌てて両手を振る。そんな個人的なことをいちいち言って回るわけにもいかないだろう。
「基本的には母は父の血しか飲まないので、島崎さんに危害が及ぶことはないと思います」
さすがは四分の一。代替品の牛乳では飽き足らず、しっかり人の生き血を啜るらしい。
父の血しか飲まない。
けれど、その言葉は恐怖よりも先に衝撃を運んできた。多分きっと、ときめきと呼んでもいいほどの。
田上さんのお母さんは、田上さんのお父さんと出会って、おそらく色々あって、吸血鬼であるということを話したんだろう。
そして今は、たった一人、伴侶と定めた人の血しか飲まないのだ。
「というかそんなことは僕が絶対にさせませんので」
その高潔さは、頑なに人の血を飲まないこの人にも通じるものがある。
自分の生命を繋ぐ素をその人に託す。もっと色んな人の血を吸うことだってできるはずなのに、そうはしないのだ。なんて強い結びつきだろう。
誰かの唯一になれるなら。
ありとあらゆるものに代替品があるこの世界で、それはとてつもなく甘美なことのように思えた。
「島崎さん……?」
気が付けば、目の前で田上さんが怪訝そうな顔をしていた。
彼からしたら、ものすごく吸血鬼に怯えているように見えたかもしれない。
「あ、なんでもないんです。ところで、お母さんは何をしに来られるんですか?」
勿論息子の顔を見にくるんだろうが、何か他にも用事があったりするんだろうか。XX市は都内に近いから、観光とかも予定しているのかもしれない。
「ああ、母は」
そこで田上さんは、この世の全ての不幸を集めて煮凝りにしたような顔をした。心底いやだとばかりに天を仰いでから続ける。
「僕に交際相手ができたかの確認にくるんです」
「……へっ?」
声が裏返って、ぎこちなさが隠せなかった。
「こうさい、あいて」
「お恥ずかしい話なのですが、三十までに自分で相手を見つけられなかったら、見合いに出すぞと言われておりまして」
それは何となく自分にも覚えがある。
「分かります。私も、田舎の母に似たようなことを言われました」
どこもせっつかれるのは同じなんだなと思っていたら、続いた言葉にカフェオレを拭きそうになった。
「吸血鬼専門のお見合いが、あるんですよね……」
「吸血鬼専門!?」
「二分の一以下の割合なら、血を吸うことは可能なので。今は混血の吸血鬼同士で結婚することもままあるそうです」
吸血鬼同士なら、秘密がバレることを恐れることも気味悪がられることもない。
いや、すごい。吸血鬼お見合い。さすが現代に対応して生きる怪異だ。
「仮にお見合いで二分の一の吸血鬼と二分の一の吸血鬼が結婚したら、生まれる子供の吸血鬼の割合としてはどうなるんでしょうか?」
私と言えば、呆気に取られてそんなばかみたいな返事しかできなかった。
百パーセント吸血鬼になっちゃうのかな、なんて。
「ああ、二分の一のままですね」
田上さんは少しの動揺もなくそう答えた。
「遺伝情報は両親から半分ずつ受け継がれますので。母親から二分の一の半分の四分の一の吸血鬼成分を継いで、父親からも四分の一、合計して二分の一のままです」
なるほど、私は今ひとつ、賢くなった。
いや、大事なのはそこではなくて。
「いないんですか、彼女」
あ、聞いてしまった。
「ええ、いないんですよ、彼女」
そして、答えられてしまった。
そりゃあ、彼女がいたら相手の女の子に義理立てして、田上さんは私と水族館にはいかないだろうから、大体察しはついていたけれど。
「ただ、今はその……なんていうかな。お見合いをしようという気にはなれなくて」
大きな手がマグカップを包み込むように握っている。青い目はゆらゆらと揺れるコーヒーの水面に向けられていた。
「何とか穏便に母を丸く収めて、帰ってもらえるといいんですけどね」
頭の中にあの掠れた声が蘇った。
――おれはいつか、すっごい好きになった女の子に告白して、両思いになって、それからその血を飲ませてもらうのが夢なんだ。
田上さんが教えてくれた夢。私に話してしまったことを彼は覚えてはいない。
吸血鬼は吸血鬼と暮らす方が幸せなのかもしれない。
たとえ同じ水槽の中にいたって、サメとアジは別の魚だ。
そうやってお見合いで出会った人を、田上さんはきっと大切にするだろう。水族館や動物園に一緒に行ったり、お寿司やフレンチにも連れて行くかもしれない。
そしてきっと、田上さんはその人の血を飲むのだろう。
私の血は、まだ飲んでくれないのに。
想像してしまったら、それは無性に鮮明で脳裏に焼き付いて離れなかった。
私には吸血鬼としての田上さんを完璧に理解することは多分できない。
彼の夢を中学二年生みたいだと笑い飛ばすこともできた。お母さんのご提案は現実的な解決だろう。けれど、私はもう少し田上さんに夢を見たままでいて欲しかった。
「だったら、ひとついい方法があります」
立ち上がって気合十分にとん、とテーブルに両手を突いたら、波打つようにマグカップのコーヒーが揺れた。
「彼女がいることにしちゃえばいいんですよ」
「……は、はい?」
今度は、田上さんの声が裏返る番だった。
「島崎さん?」
青い目が不安げにこちらを見上げてくる。
「私が彼女ってことで、どうでしょうか?」
その時、私はまだ気づいていなかった。
本当に彼女であるならば、フリをする必要はない。
図らずとも、これは私が代替品であることの証明になってしまうという残酷な真実に。




