3.彼女のフリ
「お母さんに、ちゃんと彼女がいるから大丈夫って言ってやればいいんです。そうすれば、当分の間は静かになるはずです」
「いや、でも、いくら母とはいえ話をすれば」
ここはちょっと私も思うことがあった。
「田上さん」
ぐっと身を乗り出して、田上さんに迫る。その分だけ大の男が後ずさる。
そう、この人は見た目に反して圧倒的に押しに弱いのだ。だからこそ、想像がつくことがある。
「今までお母さんと話をして、通じたことありましたか?」
田上さんははっと息を呑んだ。
「ない、ですね」
そうなのだ。
悲しいことに、話をしても通じないことというのがこの世にはある。
誰が悪いということでも間違っているということでもなく、しいて言えば信じるものが異なるがゆえに。
母たちは、子供が交際して結婚して、あわよくば孫とかが生まれることが幸せだと信じている。いや、信じるほかないのかもしれない。
けれど、だから、私たちの言葉は届かない。
「田上さんはこのまま、お母さんにごり押しされて、大して好きでもない人と結婚させられてもいいんですか?」
田上さんはバツが悪そうに目を逸らして小声で言う。「それは、いやです」
「だったら、戦略的に迎え撃ちましょう! きっとなんとかなるはずです」
「いや、でも、仮にそうだとしてもですよ。島崎さんを、僕のこんな個人的な事情に巻き込むわけには」
「田上さん」
ここも、もう一つ畳みかける。
「私以外に、田上さんの周りで田上さんが吸血鬼だって知ってる女性はいますか?」
「……いませんね」
そうだろうな、と思った。
「あと一週間で、自分が吸血鬼だと晒せる彼女を作ることができると思いますか?」
「……無理だろうな」
そうだろうな、と思っている。
「だったら、私が適任です。そう思いませんか?」
田上さんの広い肩が上下する。彼は絞り出すように大きくため息をついた。
勝った。
直感でそう思った。
「……そう、ですね」
降参するように、田上さんは言った。
「今後、こんな理不尽で自分勝手なお願いは、絶対にしないとお約束します」
怜悧な相貌が泣き出す前のように、くしゃりと歪む。
「全部終わったら、なかったことにしていただいて構いません」
そのまま、まるで正座でもしているかのように田上さんは深々と頭を下げる。
彼がこういう律儀な人だと、私はよく知っていた。
それを分かっていて、逆手にも取った。
「なので、大変申し訳ないのですが、来週母が来ているその少しの間だけ、僕の交際相手のフリをしていただいてもよろしいでしょうか」
けれど至極丁寧に紡がれたその言葉に、私は心の底から寂しさを感じてしまったのだった。
「おそらく、馴れ初め的なことを聞かれると思うんです」
「はあ」
間の抜けた返事をする田上さんを尻目に、私は椅子に座り直した。
「そんなこと聞いて、どうするのでしょう?」
そう問われると、私も困る。ただ、
「これは、そういうものなんですよ」
私にも覚えがある。女性は友達に彼氏ができたと聞けば、やれどこで出会ったのか何をしている人なのか初デートはどこなのかと根掘り葉掘り尋問、もとい質問するものなのだ。
だからきっと、お母さんもそうだと思う。
「なので、情報のすり合わせが必要かなと」
「僕と島崎さんの回答に齟齬があれば、彼女のフリだと母にバレてしまう、ということですね」
「はい、そうです」
私は大きく頷いた。
「えっと、ではどこで出会ったことにしましょうか」
「多分、あからさまな嘘を吐くとバレると思うんですよね」
これを女の勘と呼ぶべきなのか、母性と称するべきなのかは分からないけれど、きっとバレる。
「だと思います。母はその……吸血鬼だからなのかは知りませんが、異様に鋭いところがあるので」
女の勘+母性+吸血鬼の本能と来た。
ものすごいトリプルコンボである。これは手強いに違いない。
「正直に、“おとなりさん”なので、と話す方がいいですかね」
田上さんが窺うように尋ねてくる。
「そうですね」
「あとは、一緒に買い物を行ったり余ったおかずを分け合ったりとか」
これは本当だけど、私は一度も田上さんにおかずをあげたことはない。ずっともらってばっかりだ。
「それで、最近はじめて水族館にデートに行ったということでどうでしょうか?」
「そういうことにしましょうか」
田上さんがそう返してから、私は気が付いてしまった。
ここまでのことに、何ひとつ嘘はないのだ。
彼女のフリ、というその一点を除いては。
気付いてしまったら、途端に心がざわざわし始める。同じ道筋を辿っても、彼女になることはできたはずなのだ。
現在そうではないという、それだけで。
いやいや、それは今どっちでもいい。大事なのはここからだ。
「田上さん」
私は少し意気込んで言った。
「ひとつ決めておかないといけないことがあります」
「な、なんでしょうか、島崎さん」
「恋人同士は普通、名前とかで呼び合うことが多いんです」
そう、「田上さん」「島崎さん」呼んでいるようでは、到底恋人同士には見えない。
なんかこう、もうちょっと親密感のある呼び名がほしい。
「いやでも、苗字で呼び合う恋人同士も、いるんじゃないでしょうか?」
往生際が悪い田上さんは、苦し紛れにそんなことを宣うた。
「そんなものはいません」
少なくとも、私は見たことがない。やたらとばかみたいな愛称で呼び合うカップルは、たまに見るけど。
「ではなんと、お呼びすればいいですか?」
雨に濡れたゴールデンレトリバーは、飼い主に叱られてみたいにしゅんとしている。見えないはずの耳としっぽまで見えるみたいだ。
「えっと……」
大学時代の友達とかには「千夏ちゃん」と呼ばれていた気がする。まあでも、彼氏なら呼び捨てでいいだろう。
そういえば、田上さんに名前教えてたっけななどと思いながら、私は答えた。
「千夏、でいいですよ」
ひっ、と田上さんの喉が鳴った。そんなに変な名前だろうか。
一応、キラキラネームではないと思うんだけど。
「い、いきなりそんな、呼び捨てとか……だめだろ、普通」
なんか低い声で小声でぶつぶつ言っている。別に名前なんて減るもんじゃなしいいだろうに。
「田上さんは、『瑠偉』でいいですか?」
「えっ……」
私が尋ねると、今度こそ田上さんが固まった。美しい顔からすとん、と表情が抜け落ちて、それこそ美術館に飾られている本物のギリシャ彫刻のようになる。
田上さんの方が年上だし、さん付けとかの方がよかったのだろうか。
「お友達とかにはなんて、呼ばれてました?」
そこでやっと、田上さんは魂を取り戻した。青い目に生気が戻って考え始める。
「普通に『田上』って呼び捨てにされていたぐらいですかね」
これは多分男子だ。野郎はなんの参考にはならない。
「とりあえず『千夏さん』とお呼びしてもいいですか……僕のその、身が持たないので」
だったら私も合わせた方がいいだろう。
「ええ、はい。瑠偉さん」
また田上さんがびくっと大きな肩を震わせる。
こんなんで本当に彼女のフリなんて成立するんだろうか。
一週間、やることは山積みだなと私は一人思った。




