4.とってもおいしそう
結果から言えば、彼女のフリはあまりうまくいかなかった。
「えっと、ち、ちち、千夏さん」
「はい、瑠偉さん」
名前を呼ぶだけでこれだ。
本当は、タメ口で話せた方がいいんだろうなとは思っていた。
私だって付き合っていた人がいないわけではないけれど、その時は普通に話していたし。
けれど田上さんの様子を見るに、とてもとても、そんなことは無理そうだった。
こんなことでトリプルコンボのお母さんを迎え撃つことができるのだろうか。
そんなことを思っている間に、案外すぐにお母さんが訪ねてくる日になってしまった。
駅まで迎えにいくという田上さんの帰りを、私は彼の家で待っていた。
この変な緊張はなんなんだろう。自分の家と同じ間取りなのに、やたらきちんと整理整頓された田上さんの部屋に一人でいるからだろうか。
本当の彼女なわけではないんだから、どんと構えていればいいのに。私はひどく落ち着かなかった。
ぴょこっと、この前連絡先を交換したばかりのメッセージアプリの通知が鳴る。
『母と合流しました。今から帰ります』
しばらくすると、やたらと明るいピンポンの音が響いた。
帰ってきた合図としてあらかじめ決めていたものだ。
「まあ!」
ぱたぱたと駆けてくる足音は、小さな子供みたい。
「あなたが千夏ちゃん?」
きゅっと手を取られて顔を覗き込まれた。
長い睫毛に彩られた青がきらめく。
ああ、田上さんと同じ色だ。彼の目を、こんな近くで見たことはないけれど。
異国の血を宿した顔立ちがよく似ている。言われなくても、母子だとすぐに分かる。
田上さんってすごくお母さん似なんだなあということを思いながら、私は見惚れていた。
「母さん」
割り込むように、節くれだった手が控えめに私の手を取った。まるでお母さんの手から引きはがすようにしたら、その手はすぐに離れてしまう。
低い声が窘めるように言う。
「千夏、さんの手をそんな不躾に握らないでください」
「あら、別にいいじゃない? ねえ、女同士なんだし」
田上さんは露骨にむっとした顔をした。この人がこんなに分かりやすく表情を露わにするのは珍しい。
「よくないですよ」
そして、美形が凄むとさすがの迫力である。けれど、対するのも美形である。田上さんはギリシャ彫刻みたいな感じだけれど、お母さんはルネサンス絵画の中から出てきた女神様みたいだ。
「なに、るーちゃんったら嫉妬してるの? 器の小さい男は嫌われるわよ」
「るーちゃん……?」
目の前の端整な顔と「るーちゃん」というポップな呼び方がうまく繋がらない。右手で田上さんを示せば、お母さんはうんうんと頷いた。
「そう、るーちゃん。かわいいでしょ」
「母さん、いい年した息子を人前で変な名前で呼ばないでください」
田上さんがますます不機嫌そうになる。私もかわいいと思うのだけれど。
「そんなことよりちゃんと自己紹介をしてください、母さん」
「あ、それはそうね」
お母さんはぱんっと手を叩いて、にこりと微笑んだ。
「はじめまして、瑠偉の母をやっています。樹里亜です」
じゅりって呼んでね、とウインクされるとなんだかきゅんとしてしまった。
魔性ってきっとこういう人のことを言うんだろう。なお、自己紹介の間中、田上さんはしかめっ面だった。
「本当、千夏ちゃんって素敵」
お母さん改めじゅりさんの青い目がすっと細められる。その目が一瞬、真っ赤に輝いたような気がした。
やわらかな美貌に何とも言えない鋭さが宿る。そう、それはまるで狩りをするライオンのような。
「るーちゃんが夢中になるのも当然よね」
「そ、そうですかね」
予想に反して、何も質問されることはなかった。そんなことはもう、不要だとばかりにじゅりさんは朗らかに笑っている。
けれど、何をそう簡単に分かるというのだろう。彼女は私の名前以外、何も知らないというのに。
「だって」
そこでじゅりさんはうっとりと目を閉じて深呼吸をした。そのままゆっくり舌なめずりをすれば、わずかに尖った犬歯が覗く。
「見れば分かるわ。だって、千夏ちゃんってとってもおいしそう」
私の肩がびくりと震えたのと、強い力で引き寄せられたのが同時だった。
「母さん!!!」
ぎゅっと抱きしめてきたかと思うと、田上さんは私の姿を隠すようにじゅりさんに背を向けた。
頭の後ろに大きな手がある。こんな風にされればいやでも体が密着する。どくどくと脈打つ心臓の鼓動まで聞こえてくる。
やっぱり、この人は体温が高い。つられたように、私も顔に熱が上る。
「母さんは、父さんの血しか飲まないんじゃなかったんですか!!」
押し付けられた胸板から怒りを宿した声が響く。それでも、対するじゅりさんの声は弾んでいた。
「そりゃあ、男の人はもうみっちゃんしか飲まないって約束したけど。千夏ちゃんは女の子だし、ね?」
「みっちゃん……?」
「父のことです。充志と言います」
なるほど。こっちもなんだかすごくかわいい感じに聞こえる。
「みっちゃん、こないだ健診でコレステロールが引っかかちゃって。最近ちょっとおいしくないのよね……。その点千夏ちゃんは若くてぴちぴちだし」
それはそれは。大丈夫だろうか、みっちゃん。病院に行った方がいいのでは。
ではなくて。
「お付き合いしてるってことは、もう血は飲んだんでしょ。どんな話を聞くよりそれが一番為人が分かるものね」
私を抱きしめている田上さんの体が強張った。
「別に首からもらおうとは思ってないわよ。こう、手とかからちょーっと」
「だめです。絶対に、だめ」
背中に回った腕の力が強くなる。
私といえば、やっぱり首から飲むのが普通なんだななどと考えていた。その辺りは吸血鬼映画と同じらしい。
じゅりさんが田上さんの向こうから覗き見るように、ひょこっと体を倒す。また青い瞳と目が合って、彼女はひらひらと手を振ってくる。
「だってるーちゃんの彼女の血なら、どうしたって飲んでみたいわ」
体の前で握りしめるようになっていた自分の手を見る。
じゅりさんが何も聞かないのは当然だった。この身に流れる血は、どんな言葉よりも雄弁に私のことを語ってくれるのだろう。
田上さんは、頑なに私の血を飲まない。それは、彼が立てた誓いのためだけれど。
「いいですよ」
田上さんの腕の合間を縫って、私はじゅりさんに手を伸ばした。
「え、ちょっと、島崎さん!?」
田上さんの青い目がまん丸になる。あんなに練習したのに、動揺すると地が出る。この人もこんな顔をできるんだ。
「だって、手から飲むんだったら採血とそこまで変わらないかな、なんて」
「ほらはら、この通り本人もいいって言ってるし」
するりと伸びてきた白魚のようなじゅりさんの手を、田上さんはすげなく払った。
「いや、だめだって、だから!」
ぎゅっと手首を握られる。思いのほか強い力で振りほどけない。
それは少し痛いぐらいで、今までずっと田上さんはちゃんと加減をしてくれていたんだなと思った。
その気になればもしかして、私の首をへし折ることなんて容易いのかもしれない。
「田上さん、痛い、です」
私がそう言うと、一瞬にしてその手が離れる。
「ごめん」
代わりに、田上さんは自分のズボンをぎゅっと握りしめた。きれいに洗濯されたそれに歪な皺が寄る。
「……違いますよ」
ぼそりと、田上さんは呟いた。そのまま私に背を向けて、じゅりさんに向き直る。
「この方は、島崎さんは、僕の彼女ではありません。僕が母さんに色々言われるのが嫌だと言ったら、彼女役を引き受けてくれただけなんです。ただの、おとなりに住んでいるだけの方です」
田上さんが言っていることは何も間違いではない。私と彼の間にある、真実だ。
「まあ、そうなの……」
しぼんでいく風船のように、しょんぼりとじゅりさんが言う。
「だから、絶対にこの人の血は飲まないでください」
私からは田上さんがどんな顔をしているのかは分からない。ただその言葉だけがひどく冷たく響く。
また体をひょこっと覗き込んできたじゅりさんと目が合う。
その目は、本当にきれいな青色だった。




