8.私はきっと
結果として田上さんは一週間も寝込んだ。
一向に熱が下がらないため吸血鬼御用達だという診療所(ここの院長先生もクォーターらしい)を受診したところ、なんとインフルエンザに罹っていることが判明した。
用法用量を守って抗ウイルス薬を飲み、ついでに牛乳も一日三本も飲み、現代医学の粋と吸血鬼の体力の両方を併せて、やっと回復したのだった。
私といえば、せっせと牛乳とレトルトのおかゆやらを買っては田上さんの部屋に運んだ。田上さんはその度に世界の終りのような顔をして、
「申し訳ございません」
「本当に何から何まで」
とフローリングがすり減るんじゃないかと思えるぐらい頭を下げ続けた。
「まあ、困った時はなんとやら、と言いますので」
私が転んだ時に田上さんは颯爽と助けてくれたので、これでおあいこだ。
「来年はちゃんと予防接種をします」
聞けば、吸血鬼だし罹らないだろうと思って毎年していなかったのだという。これからは健康管理に一層気を付けるなどと言っていた。
品行方正で節制に気を配る吸血鬼。
本当に、らしくなくて時々自然と笑みがこぼれてしまう。
「……?」
目が合えば、田上さんがきょとんと首を傾げる。
「僕が、どうかしましたか?」
あの後、目を覚ました田上さんは高熱のせいか、何も覚えていなかった。
私が血を飲むようにけしかけたことも、それを断って告白したことも、全部。
あの日この部屋に入ってから起きたことは、私の記憶の中にしかない。
そのことに安心する一方で、少しだけ寂しく思う自分もいる。
「その、特選ふた葉牛乳どうですか? やっぱりおいしいですか?」
田上さんが今飲んでいるのは、ユキイチで一番高いブランド牛乳だ。
生産地限定、成分無調整、乳脂肪4.0%。
見ているだけでリッチな味わい。
「ええ」
田上さんは牛乳の入ったコップをまるでワイングラスかのように、優雅にかざしてみせる。
「とても、おいしいです」
そのまま彼はコップを傾けて、本当においしそうにぐいっと飲み干した。
よかった。なお、一番安い牛乳の倍ぐらいする。
これは私からの快気祝いとささやかなおわびのつもり。
「島崎さん、本当にありがとうございました」
いつものように深々と頭を下げた後、田上さんはこう言った。
「何か、お礼をさせてはいただけないでしょうか」
「だから、いいですよって」
「さすがに、そういうわけにはいきません」
そこまで言われると、ちょっと思うところもある。
「なんでも、してくれるんですか?」
ベッドに座る田上さんから少し離れたところに、私は腰を下ろす。
「はい。僕にできることなら、なんでも」
こういうところが、本当にこの人らしいなと思う。
ギリシア彫刻のような顔と向き合う。
高い鼻梁にびっくりするほど長い睫毛。
百人いたら九十八人ぐらいはうっかり恋に落ちそうな男前で、健康的な細マッチョ。
ほら、やっぱり私の好みじゃない。
口にしない願いを、誰か魔法のように叶えてくれることはない。現実世界に王子様はいない。
でも、もし仮に王子様がいたとしても、私がお姫様かどうかは別の話だし、その先だってある。
これからもずっとすごろくは続く。
だから多分、大切なのは自分でサイコロを振ることだ。
「田上さん、私ね」
久しぶりに泣いたんです。
あなたを寝かせて、牛乳を買いに行こうと思ってうちの部屋に戻ってから。
なんでか分からないけど、子どもみたいに泣いたんです。
あなたは何も、知らないでしょうけど。
私はきっと、嬉しかったんですよ。
なんてことは言えないので、もう少し具体的な要望を。
「回らないお寿司が食べたいんですけど、いいですか?」
ちょっとだけ身を乗り出して殊更明るい声で言ったら、田上さんがはっと息を呑んだ。
「ええ、構いませんが」
「ただし」
青いその目に、精一杯微笑みかけてみる。
ほんのちょっとでいいので、かわいく見えていたらいいなと思いながら。
「水族館に行った後で、です」
あの水族館に売っているペンギンのエコバックには、確か色違いがあったと思う。田上さんは、こんなにきっちりしているくせに毎回有料のレジ袋をもらうのだ。それを買ってあげたら、この人はどんな顔をするだろう。
「それは、随分と」
驚いたように田上さんの切れ長の目がまん丸になる。言わないその先を、大体は予想がつく。
魚を見た後に魚を食べるだなんて、残酷だって言いたいんだろう。
私だって悪趣味だって分かっている。けれど、これは悪趣味だからこそ、いいのだ。
「人の生き血を吸う一族の方に残酷だとか言われたくないです」
私がそう言うと、田上さんは前髪をかき上げて天井を仰いだ。
ただ食べられる家畜でいるのは、もういい。
値踏みをして、されて、食べて、食べられて。
私も誰かを、何かを、おいしく食べて生きていく。
その残酷さを、この吸血鬼となら分かち合える気がした。
「そうですね。僕にそれを述べる資格は、ないでしょう」
諦めたように、ひとつ大きく息を吐く。
「お付き合いしますよ」
「やった」
田上さんは、やっぱり普段自分のことを「おれ」とは言わない。でもいつか。
「夢、叶うといいですね」
もしもあなたが私に心の中を見せてもいいと思えたら、その時は。
その時は、私の血を飲んでくれたら嬉しい。
それまでは、これは、私だけの秘密。
「……はい?」
顔中にはてなマークを浮かべる田上さんに、テーブルに置いたものを指さした。
「借りた傘とタッパ、お返ししますね」
「ああ。ありがとうございます」
それはこちらのセリフだと私は思う。
「予定確認したら、また連絡します」
「はい、では」
帰る先はすぐ近くだけど、田上さんは丁寧にあいさつをしてくれた。
1LDKが事故物件になる夢を、私はもう見ない。
代わりに最近は水族館に行く夢をよく見る。田上さんは何とも言えない神妙な顔で、水槽を悠々と泳ぐ魚たちを眺めているのだ。
このやさしい吸血鬼の夢が叶う日を、壁一つ隔てたおとなりで、私も待っている。
人間になりたい家畜と吸血鬼の話。
ということで、本編完結です。
千夏と田上さんを最終話まで見守っていただき、ありがとうございました!!
一応、やんわり続き?というか
・本当に水族館に行くのか
・日本吸血鬼学会 吸血基準
・田上さんのお母さん登場
・知り合いの吸血鬼が千夏に横恋慕(当て馬展開)
・田上さんは血を吸える日は来るのか!?
とかもちょっと考えているので、いつか書けたらいいなと思っています。
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また次のお話でお会いできますように!




