7.名前のない月
自分が純粋な人間じゃないと教えられたのは、七歳の頃だった。
それまでは、ただ曽祖父が外国の生まれなだけだと思っていた。その頃の僕は、誰よりも背が高くてクラスで一番走るのが速かった。それをある種、誇りのようにも思っていた。
その全てが反転した。
それらは全部、僕が人ならざるものをこの体に宿していることの証明に等しかった。
そして、どうして、普通に生まれてこられなかったのだろうと何度も思った。
その思いは成長するほどに強くなった。僕は、無駄に大きな体を縮めるようにして生きてきた。
ウイルスに興味を持ったのは、そんな時だった。
どんなに強い力を手に入れても、それ単独では生きていけない。宿主に寄生して生きる様が、まるで自分のようだと思った。
念願叶って就職が決まった時、母からは親族――つまり吸血鬼の一族が管理するマンションに住むように言われた。
「るーちゃんだって何があるか分からないでしょ」
成人した息子をそんなばかみたいな呼び方で呼ぶのはやめてほしいと何度も言っているのだけれど、母はちっとも耳を貸してはくれない。
僕よりも濃い吸血鬼の血を持つ母は、五十を超えてもまだ若々しい。うっかり三十代と言っても通用する。
「僕は、そんなことはしないつもりです」
そんな母の目下の悩みは、僕が頑なに人の血を飲もうとしないことだった。ただ何かを達観したようにうっとりと微笑んだ。「るーちゃんは頑固ねぇ」
「でもね、おいしい人は見たら分かっちゃうものなのよ」
おいしい人。
いつもそうだ。母にとっての人間はそういう区分をされる。一体人をなんだと思っているのか。
その意味が全く分からないわけではないけれど、そういうことをしたくなかった。
けれど、僕は母が言ったことを完璧に理解することになる。
階段を上ってくる音がする。それを聞いただけで、胸が高鳴った。
「あ、田上さん。こんにちは」
島崎さんは僕の隣に住んでいる。少し左の踵を引きずるように歩く癖があるので、彼女の足音はすぐに分かる。確か都内の会社で事務職をやっていると言っていた。
びっくりするほど奇抜な装いをしているわけではない。着ている服もグレーやベージュのものが多くて、どちらかといえば、おとなしい人なのだと思う。
それでも、一目見た瞬間に、分かった。
この人の血は、おいしいと。
あなたは知らないだろう。
時々、スーパーや部屋の前で会って簡単な会話をする、たったそれだけの時間に僕が何を考えていたのか。
ひとつに結わえた黒髪が揺れる。すると、白い項があらわになる。
漂うのは、花の蜜のような甘い香り。作られたものではない、彼女自身の肌の匂いだ。
牛乳よりも白くなめらかなその肌に歯を立てれば、一体どんな味がするのだろうかと。何度も何度も考えた。そしてその度にそんな自分に絶望した。
八分の一とはいえ、怪異の血は五感を鋭敏にする。こういう化け物の性が本当に嫌になる。頼むから、一生知らないでいてほしい。
吸血鬼だと話したのは、そうしないと公平じゃないと思ったからだ。
分かっていてそれでも住み続けるのと、知りもしないのはきっと違うから。
正体を知られたら引っ越すかなと思ったのに、島崎さんは変わらずあの部屋に住み続けている。いや、引っ越してほしいわけでは、ないけれど。
ある時、買い物の帰りにスマートフォンを見た島崎さんは、とても苦しそうな顔をした。
悲しいと悔しいを半分ずつ混ぜたような、そんな。
僕が見つめていることに気が付いたのだろう。彼女は眉を下げて首を振った。
「大したことじゃないんです。おかあ……母から連絡がきて」
取り繕うように笑ってみせても、眉間にできた皺は消えない。どこか遠くを見るように、その目を細めてみせる。
「家族って、時々、すごく難しいですよね」
僕は今まで、母に感じる煩わしさのようなものは、僕が吸血鬼だから生まれるものだとずっと思っていた。ただの人間に生まれていたら、こんなものは全て存在しないのだと。
けれど、それは僕の思い上がりだったのかもしれないと、島崎さんの顔を見ていたら思った。
「そうですね」
その皮膚の下に流れる血を普段目にすることがないように、誰もが身の内に生きづらさを隠して生きている。
それは多分、吸血鬼でも人間でも同じことだ。
進行方向に、名前の知らない月が浮かんでいる。三日月でも半月でもない、中途半端なそれ。
吸血鬼の家系だけあって、僕は無神論者だけど、気づけばその月に祈っていた。
あのマンションに帰るまでの短い間、僕の隣を歩くこの人に。
明日は何かいいことがありますように、と。




