6.もういいじゃないですか
週明け、仕事に行く時に身構えなかったと言えば、嘘になる。
けれど、気負った割には何もなかった。塚本くんも課長も、誰も変わらなくて「先週の飲み会楽しかったね」となんて声も聞こえてきた。
そんなもんか、と私はひとりごちた。
ただ、田上さんに返さないといけないものが、二つに増えた。
タッパは随分前から洗って置いてある。折り畳み傘はちゃんとベランダで乾かしてから畳んだ。そのうちどこかで会えるだろうか、と思いながら五階までの階段を上り終えた。
その時だった。
人が、倒れていた。
死んでいる、と思って叫び出しそうになったところで、指先が微かに動いた。どうやらこの人はまだ生きている。
そこでまじまじとその姿を見て、気が付いた。
「田上さん!?」
廊下に倒れていたのはほかでもない田上さんだった。
「ああ、島崎さん。お疲れ様、です」
私の声に反応して、彼がゆっくりと頭を上げる。
「どうしたんですか?」
形のいい額に、うっすらと汗が浮いていた。苦しそうに肩で息をしている。どこからどう見ても具合が悪そうだ。
「いえ、牛乳を買いに行こうかと思ったのですが……体が、動か、なくて」
きっと熱がある。多分、風邪をひいたんだ。
あの夜、田上さんは私に傘を貸してくれたから。そして、雨に濡れたから。
人よりは丈夫だって言ったくせに。
「とりあえず、家に帰りましょう。歩けますか?」
肩を貸そうとしたら、田上さんが弱々しく首を横に振る。
「いえ、そんなことをしていただく、わけには」
こんな時までとんでもなく律儀だ。全部私のせいにしたっていいぐらいなのに。
「いいから、いいから」
問答無用でしっかりとした腕を首に回して担ぐようにした。体の重みがそのまま肩にきて、大きな手がそっと私の服を掴む。これまたか細い声で「すみません」と謝るのが聞こえた。
左手に握りしめられていた鍵で扉を開ける。
よく言えばとても整頓された、悪く言えば殺風景な部屋だった。
とても私と同じ部屋の間取りだとは思えなかった。
やっとのことで田上さんをベッドに横たえた時には、私は息も絶え絶えになっていた。田上さんは私を抱えて軽々と階段を上っていたというのに。
「島崎さん」
ぐっと手をついて田上さんが、体を起こす。
「こんなことをお願いするのは本当に恐縮なのですが」
熱で潤んだ目が、縋るようにこちらを見る。青い瞳の中に私だけが映っている。
「僕のために、牛乳を買ってきてはいただけないでしょうか?」
悲痛に掠れた声で紡がれたのは、ほんの些細なお願いごとだった。体を回復させるために栄養がいる。そのために牛乳がほしいということなのだろう。
思わずふっと、笑いがもれた。
「いいじゃないですか、もう」
人の血を飲んだことはないと、田上さんは言っていた。
けれど、欲しくないわけじゃないことは明らかだ。だってあんなにも、私の膝小僧の血に反応していたんだから。
だったらもう、飲んでしまえばいいのだ。
私は人間で、彼は吸血鬼。それだけのことだ。
「ぱーっといっちゃいましょう。そしたらきっとすぐ元気になりますよ」
八分の一というのがどれぐらいの力を持つのかは分からないけれど、それでも本物の血に勝るものはないだろう。
妙に気分が高揚してきて、私は勢いよく着ていたシャツのボタンに手をかけた。これは例の吸血鬼映画の真似。
はだけてしまえば、首筋があらわになる。そうだ、別に死ぬわけじゃないし。
ここに歯を立てて田上さんが血を飲んでくれればいい。
そう思った。
「……やだよ」
押し留めるように手首を掴まれる。ひどく熱い、大きな手だった。
家畜が食べられるのも、永遠じゃない。きっと食べごろとか賞味期限がある。それなら、わたしはいつまで食べられるだろう。
「どうしてですか? わたしの血、おいしくなさそうだからですか?」
いつまで、まな板の上に乗っていればいいのだろう。それなら、今でいい。そう思ったのに。
私を見つめる目が赤みを帯びて、紫のような不思議な色になる。田上さん自身の青と吸血鬼の赤が、その身の内で拮抗している。
どうしようもない根源的な飢えが、その眼差しに宿っている。
「おれはまだ、人間で、いたい」
この人が自分のことを「おれ」と呼ぶのを、はじめて聞いた。
もしかしたら、普段はそう言っているのかもしれない。
「まだ、告白してない」
泣き出しそうな声が言った。
「へっ?」
一瞬何かの聞き間違いかと思った。
手首に触れる田上さんの手がぎゅっと強くなる。
「おれはいつか、すっごい好きになった女の子に告白して、両思いになって、それからその血を飲ませてもらうのが夢なんだ」
それは零れ落ちた本音の一端。
長い指がかすめるように素肌に触れる。私が外したボタンを、おぼつかない指先がゆっくりとはめ直していく。
「こんな、生きるために飲むんじゃ意味がない」
笑い飛ばしたくなるような純情だ。今時中学二年生の男の子だって、こんな夢は見ない。
でもできなかった。
うらやましいなと思ってしまったから。
ちゃんと好きになって、好きを返してもらって。
その人に自分の一部を捧げることができるのなら、それは多分幸せなことだ。多分、私には少し遠い。ずっとそう思っていた。
だから、田上さんが続けた言葉に私は心底固まった。
「こんな時に好きな人の血を飲むなんて、いやだ」
「ひえっ」
この文脈でいうと、田上さんの「好きな人」は私ということになってしまうわけで。
「田上さん……?」
聞き返したら、田上さんの体ががくりと傾いだ。慌てて支えるように手を伸ばした。
ことん、と田上さんの頭が鎖骨の辺りに落ちる。シャツ越しに熱い額が当たる。きっともう体力の限界だったのだろう。
私は多分、聞いてはいけないことを聞いてしまった。
熱に物を言わせて、本心を暴き出してしまった。
荒い息が首筋にかかる。吸血鬼特有の特殊な回復能力のなせる業かと思ったけれど、具合が悪いのは、相変わらずだ。
「ばかじゃないですか」
諦めたら多分、もっと楽に生きられるのに。
こんな時でもまだ、人間でありたいと願った人。
私を家畜に、しなかった人。
「大丈夫ですよ」
乱れた後頭部の髪をそっと撫でる。子犬みたいな、やわらかな髪だった。
だから、私がすべきことは多分、自分を投げ捨てることじゃない。
「私があなたを、化け物にはさせない」
そっと田上さんを横たえて、私は隣の自分の部屋に戻った。




