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おとなりの吸血鬼は牛乳で生きている~高度に進化した怪異は人間と区別がつかない~  作者: 藤原ライラ


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6/8

6.もういいじゃないですか

 週明け、仕事に行く時に身構えなかったと言えば、嘘になる。


 けれど、気負った割には何もなかった。塚本くんも課長も、誰も変わらなくて「先週の飲み会楽しかったね」となんて声も聞こえてきた。


 そんなもんか、と私はひとりごちた。


 ただ、田上さんに返さないといけないものが、二つに増えた。

 タッパは随分前から洗って置いてある。折り畳み傘はちゃんとベランダで乾かしてから畳んだ。そのうちどこかで会えるだろうか、と思いながら五階までの階段を上り終えた。


 その時だった。

 人が、倒れていた。


 死んでいる、と思って叫び出しそうになったところで、指先が微かに動いた。どうやらこの人はまだ生きている。


 そこでまじまじとその姿を見て、気が付いた。


「田上さん!?」

 廊下に倒れていたのはほかでもない田上さんだった。


「ああ、島崎さん。お疲れ様、です」

 私の声に反応して、彼がゆっくりと頭を上げる。


「どうしたんですか?」


 形のいい額に、うっすらと汗が浮いていた。苦しそうに肩で息をしている。どこからどう見ても具合が悪そうだ。


「いえ、牛乳を買いに行こうかと思ったのですが……体が、動か、なくて」


 きっと熱がある。多分、風邪をひいたんだ。

 あの夜、田上さんは私に傘を貸してくれたから。そして、雨に濡れたから。


 人よりは丈夫だって言ったくせに。


「とりあえず、家に帰りましょう。歩けますか?」


 肩を貸そうとしたら、田上さんが弱々しく首を横に振る。


「いえ、そんなことをしていただく、わけには」


 こんな時までとんでもなく律儀だ。全部私のせいにしたっていいぐらいなのに。


「いいから、いいから」


 問答無用でしっかりとした腕を首に回して担ぐようにした。体の重みがそのまま肩にきて、大きな手がそっと私の服を掴む。これまたか細い声で「すみません」と謝るのが聞こえた。


 左手に握りしめられていた鍵で扉を開ける。


 よく言えばとても整頓された、悪く言えば殺風景な部屋だった。

 とても私と同じ部屋の間取りだとは思えなかった。


 やっとのことで田上さんをベッドに横たえた時には、私は息も絶え絶えになっていた。田上さんは私を抱えて軽々と階段を上っていたというのに。


「島崎さん」


 ぐっと手をついて田上さんが、体を起こす。


「こんなことをお願いするのは本当に恐縮なのですが」


 熱で潤んだ目が、縋るようにこちらを見る。青い瞳の中に私だけが映っている。


「僕のために、牛乳を買ってきてはいただけないでしょうか?」


 悲痛に掠れた声で紡がれたのは、ほんの些細なお願いごとだった。体を回復させるために栄養がいる。そのために牛乳がほしいということなのだろう。


 思わずふっと、笑いがもれた。


「いいじゃないですか、もう」


 人の血を飲んだことはないと、田上さんは言っていた。

 けれど、欲しくないわけじゃないことは明らかだ。だってあんなにも、私の膝小僧の血に反応していたんだから。


 だったらもう、飲んでしまえばいいのだ。

 私は人間で、彼は吸血鬼。それだけのことだ。


「ぱーっといっちゃいましょう。そしたらきっとすぐ元気になりますよ」


 八分の一(ワンエイス)というのがどれぐらいの力を持つのかは分からないけれど、それでも本物の血に勝るものはないだろう。


 妙に気分が高揚してきて、私は勢いよく着ていたシャツのボタンに手をかけた。これは例の吸血鬼映画の真似。


 はだけてしまえば、首筋があらわになる。そうだ、別に死ぬわけじゃないし。


 ここに歯を立てて田上さんが血を飲んでくれればいい。

 そう思った。


「……やだよ」


 押し留めるように手首を掴まれる。ひどく熱い、大きな手だった。


 家畜が食べられるのも、永遠じゃない。きっと食べごろとか賞味期限がある。それなら、わたしはいつまで食べられるだろう。


「どうしてですか? わたしの血、おいしくなさそうだからですか?」


 いつまで、まな板の上に乗っていればいいのだろう。それなら、今でいい。そう思ったのに。


 私を見つめる目が赤みを帯びて、紫のような不思議な色になる。田上さん自身の青と吸血鬼の赤が、その身の内で拮抗している。


 どうしようもない根源的な飢えが、その眼差しに宿っている。


「おれはまだ、人間で、いたい」


 この人が自分のことを「おれ」と呼ぶのを、はじめて聞いた。

 もしかしたら、普段はそう言っているのかもしれない。


「まだ、告白してない」


 泣き出しそうな声が言った。


「へっ?」


 一瞬何かの聞き間違いかと思った。

 手首に触れる田上さんの手がぎゅっと強くなる。


「おれはいつか、すっごい好きになった女の子に告白して、両思いになって、それからその血を飲ませてもらうのが夢なんだ」


 それは零れ落ちた本音の一端。


 長い指がかすめるように素肌に触れる。私が外したボタンを、おぼつかない指先がゆっくりとはめ直していく。


「こんな、生きるために飲むんじゃ意味がない」


 笑い飛ばしたくなるような純情だ。今時中学二年生の男の子だって、こんな夢は見ない。

 でもできなかった。


 うらやましいなと思ってしまったから。


 ちゃんと好きになって、好きを返してもらって。

 その人に自分の一部を捧げることができるのなら、それは多分幸せなことだ。多分、私には少し遠い。ずっとそう思っていた。


 だから、田上さんが続けた言葉に私は心底固まった。


「こんな時に好きな人の血を飲むなんて、いやだ」

「ひえっ」


 この文脈でいうと、田上さんの「好きな人」は私ということになってしまうわけで。


「田上さん……?」


 聞き返したら、田上さんの体ががくりと傾いだ。慌てて支えるように手を伸ばした。


 ことん、と田上さんの頭が鎖骨の辺りに落ちる。シャツ越しに熱い額が当たる。きっともう体力の限界だったのだろう。


 私は多分、聞いてはいけないことを聞いてしまった。

 熱に物を言わせて、本心を暴き出してしまった。


 荒い息が首筋にかかる。吸血鬼特有の特殊な回復能力のなせる業かと思ったけれど、具合が悪いのは、相変わらずだ。


「ばかじゃないですか」


 諦めたら多分、もっと楽に生きられるのに。


 こんな時でもまだ、人間でありたいと願った人。

 私を家畜に、しなかった人。


「大丈夫ですよ」


 乱れた後頭部の髪をそっと撫でる。子犬みたいな、やわらかな髪だった。

 だから、私がすべきことは多分、自分を投げ捨てることじゃない。


「私があなたを、化け物にはさせない」


 そっと田上さんを横たえて、私は隣の自分の部屋に戻った。


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