9.幸せの音
じゅりさんと一緒にスイーツを食べてから、一週間が経った。
「あ」
家の前で、ばったり田上さんと出くわした。
帰るところが一緒なんだから仕方がない。おとなりさんなんだし。
「こんにちは」
なんて呼ぼうか悩んで、結局何も呼ばなかった。
あんなに練習した「瑠偉さん」と呼ぶのも、今更「田上さん」と呼ぶのも、どちらもいやで。
「こんにちは」
それは向こうも同じだったようで、あいさつだけしたら途端に沈黙が下りた。
いつももっと他愛のない話もしていたはずなのに、何を話したらいいか分からない。俯いたら、やたらとファンシーなペンギンのエコバックと目が合った。
ああ、そうだ。
私がこないだ水族館で買ってあげたやつ。色違いの水色。
使ってくれていたんだ。
私が「これにしましょう」と示したら、田上さんはなんとも言えない顔をした。
この人は基本がただのギリシャ彫刻なのでとても表情が読みにくい。
多分きっと、恥ずかしいとかかっこ悪いとかも混ざっていたと思う。それでも彼は断ろうとはしなかった。
エコバックには今日買い物したであろう食材が詰まっていて、ずっしりと重そうだった。あと多分牛乳も。
「今日は何作るんだろ」
思っていることが口を突いてそのまま出てきてしまった。
きょとん、とした青い瞳と見つめ合う。一瞬下りてきた沈黙ののちに、
「えっと」
田上さんはかりかりと恥ずかしそうに頭を搔いた。
「キーマカレーを、作ろうかなと」
何かが、繋がった気がした。
キーマカレーは全ての具材をみじん切りにしなければならない。それが恐ろしくめんどくさくて、私は作ったことがない。
田上さんは今からその工程を、望んで踏むのだ。
その過程を経ても追い出したい悩みが、今彼の心の中にあるがゆえに。
それは多分、この間のことと無関係ではないだろう。
だって私もずっとそうだったから。
「あの」
声を掛けたら、探るような切れ長の目が私を見た。
「私にも、キーマカレー、食べさせてくれませんか?」
我ながらちょっとどうかしていると思う。ただ、料理が苦手なこの身で、「手伝わせてくれ」とは言えなかった。
田上さんはしばらくの間に何も言わなかった。ちらりと意味ありげに私の手元を見てから続ける。
「今日はスパイスから調合して作ってみようかと思ってたんですけどね。とことん煮込んで」
「それってどれぐらいですか?」
「まあ僕の気が済むまでだから……大体三時間ぐらいかな」
「さ、三時間?!」
それは……ちょっと待てそうにない。
「冗談ですよ」
田上さんがふふっと笑った。切れ長の目元がふわりとやわらかくなる。
ギリシャ彫刻に体温が宿る。そんな微笑み。
「僕、カレールーは中辛なんですけど、大丈夫ですか?」
「あ、はい。うちも中辛なので」
特に辛いものが苦手ということもない。
「簡単バージョンで作るので、三十分ぐらいでできると思います。それでも良ければ」
そう言って、田上さんは部屋の扉を開ける。
「はい」
私はあの日以来久しぶりに、彼の部屋に足を踏み入れた。
買ってきたものを手早く冷蔵庫に片付けつつ、田上さんはエプロンを着ける。
ポケットの大きい紺色のやつ。
「適当なところに座っていてください」
言われるがままに椅子に腰かけると、田上さんがお茶を出してくれた。そのまま彼は台所へ向かった。
とんとん、とリズミカルに野菜を刻む音がする。
田上さんが玉ねぎを切っている。大きな背中だけがこちらを向いている。
なんだろう、この音、耳にすごく心地いい。
かつて妻が味噌汁に入れる野菜を切る音で起きたいと言っていたおじさん達の気持ちがよく分かる。私もこの音で朝目覚めることができたら幸せだと思う。
次に人参と、田上さんのみじん切りは続いていく。
時折動く肩甲骨の辺りを見ながら、本当に手際がいいなあと思った。そういえば、おかずは何度ももらったのに、私は今まで彼が料理をしているところを見たことがなかったのだと気が付いた。
じゅん、と野菜を炒める音がして、香ばしい匂いがする。ひき肉を入れるとますますいい匂いが漂ってきた。
あらかじめセットしておいたのだろう。ちょうどいいタイミングで炊飯器が鳴いて、田上さんがしゃもじでお米を混ぜる。こっちもふわりと炊き立てのお米の甘い香りがする。
キーマカレーが出来上がる頃には、私はすっかりお腹が空いていた。
田上さんは手を伸ばして、キッチンの吊り戸棚からカレー皿を取り出した。私の身長だと手が届かないからほとんど使っていない棚だ。同じ間取りなのに、こういう時びっくりする。
「ご飯、どれぐらい食べますか?」
「えっと……」
いくらでも食べられそうな気がしたけど、なんとなく「普通で」と答えてしまった。田上さんは、私の皿にご飯を盛りつけた後、自分用にもう少し多めに入れた。
「どうぞ」
「おおぉ」
本当に三十分しかかからなかった。これが「できる男」ってやつなのか。
完成したキーマカレーを前に、私は思わず感嘆した。
「いただきます」
誰かが作ったごはんを食べるのなんていつぶりだろう。
というか、自分とお母さん以外の人が作ったものを食べるのなんて、はじめてな気がする。
銀色のスプーンで、カレーとご飯を等量ずつ掬う。ぱくりと頬張ったら思わず声が漏れた。
「おいしい……です」
「お口にあってよかったです」
私がそう言ってから、田上さんはやっとスプーンを手に取った。そのまま、静かに自分の分のカレーを食べていく。
「こんなおいしいものでしたっけ、キーマカレー」
さっきまでそこにあった生の野菜でぱぱっと作ったとは思えない。すっごく煮込んだみたいな、得も言われぬコクがある気がする。ここで過程を全部見ていたというのに、魔法みたいだ。
「ああ、バターとウスターソースを入れたので」
「バターとウスターソース」
自分で作る時は絶対入れない調味料だ。私は裏面の作り方通りにしか作ったことがない。
「手っ取り早くコクが出るんですよ。まあ、好みはありますけど」
「ジェネリック二日目カレーだ」
お手軽にこの味が出せるのなら素晴らしい限りだ。私はぱくぱくとカレーを口に運んだ。
「『ジェネリック』というのは『一般的な』という意味で、別に手抜きということではないですけどね」
田上さんは少し照れたようにそれだけ言って、カレーを食べる手を止めた。
その青い目は、スプーンを握る私の右手に向けられている。
意を決したように膝の上に両手を置いて、田上さんは言った。
「手、大丈夫でしたか?」
「て?」
別になんということもないけれど、と首を傾げたら、田上さんは少し眉を下げた。
「その、僕が強く握りしめてしまったので」
「あ」
そういえば、じゅりさんと三人で会った時にそんなことがあった。
「骨でも折れてしまっていたら、どうしようかと」
今の今までそんなことすっかり忘れていた。
スプーンを置いて、体の前で手を振る。痕のひとつも残っていない。
「全っ然大丈夫ですよ!」
というか、そんな簡単に骨折するほど私もやわじゃないのに。
「なら、よかった」
田上さんはやっと、ほっとしたような顔をした。
それでも、この人はずっと私のことを気に掛けてくれていたのだ。
「本当に申し訳ありませんでした」
田上さんは深々と頭を下げる。私に見えるのが、そのつむじだけになる。
私はあらかた食べてしまった皿の上のキーマカレーとそれを交互に見つめた。
「やはりどんなことがあっても、あなたと母なんかを会わせるべきじゃなかった」




