8.共生
チューブ型の水槽ドームをくぐっているところで、島崎さんの姿が見えなくなった。
辺りを見渡してもどこにも見当たらない。休日の水族館は家族連れやらカップルやらで賑わっている。
みんな当然のように、はぐれないように手を繋いでいる。こんなことなら変な意地を張らないで、大人しく繋いでおくんだった。
チューブの先の深海コーナーにも、『日本の海』のところにも島崎さんはいなかった。
電話でもかけてみるかとスマートフォンを取り出したところで、僕は彼女の連絡先もなにもかも知らないことに気が付いた。
もう一度最初の大水槽に戻って、それから彼女が気に入っていたクラゲのゾーンに行くと、背もたれのないソファに一人の人影があった。
「あ、田上さん」
その小さな手の中にもスマートフォンがある。島崎さんはそれを見て、
「連絡先、知らなかったですね」
と言った。そして、ソファの少し端の方に座り直す。僕も座れということだろうか。
「『じゃあ明日十時に家の前で』としか約束しなかったですね」
僕が座ると、彼女は右手でスマートフォンを振ってみせる。示されるがままに僕もポケットから同じものを取り出した。
「交換しましょうか、連絡先」
「そうですね」
果たして、一体どんな時に連絡をすればいいかは別として。
互いにメッセージアプリを起動して操作をすると、ぴょこんと軽い通知音が鳴った。
シャチのぬいぐるみの写真がアイコンのアカウントが僕の連絡先一覧に追加される。
名前が【千夏】だから、これが島崎さんだろう。
「田上さん、豆苗がアイコンなんですね」
「ああ、まあ、はい」
別に区別がつけばなんでもよかったので、その頃台所で育てていた豆苗の写真にしたのだ。
クラゲゾーンの暗めの照明が、島崎さんのつるりとした頬を照らしている。
普段は一つに結わえている髪を、今日の彼女はふわりと解いていた。項が見えているのも毒だけれど、これはまた違う意味で毒だ。
「どうかしました?」
だって、島崎さんがこう、首を傾げるだけで甘い香りがする。
これは、非常によくない。なんというか、そそられる的な意味で。
うっかり「その血を飲めたらいいのに」とか考えてしまう。たまらず、僕は眼前のクラゲに目を向けた。
「いや、その、結構、探しました」
はぐれていたというのに、島崎さんはちっとも慌てていなかった。ただ僕の方は走り回っていたので、まだ少し息が整わない。
「私慣れてるんですよ、迷子」
彼女の言葉に、僕は目を瞠った。
「は、はい?」
「うち、三人姉弟なんですけどね。父は姉と歩いてて、母は弟といて、私は何となくあぶれるんですよね。そしてきょろきょろしてたら、迷子になっちゃうっていう」
なんてことないことのように、島崎さんは言った。
「両方が動き回ると永遠に出会えないんですよね。どっちかは一か所に留まっていないとすれ違っちゃうので」
言われてみればそうである。だとしたら、島崎さんがここに留まっていたのは合理的な選択と言える。
「多分迷子のプロですよ、私」
どこか誇らしげに島崎さんは胸を張ってさえみせる。けれど。
「いや、それ、どちらかが両手で手を繋げばいいだけの話でしょう。手は二本あるんだから」
子供が三人で親が二人だとしても、それならば本来は何の問題はないはずなのである。
僕がそう言うと、島崎さんがひどく楽しそうに笑った。「優しいですね、田上さんは」
自分の時はどうだっただろうと考えを巡らせたところで、僕は一人っ子だったことを思い出した。
僕はずっと父と母の間で両手を繋がれていた。そこに自分がいることを、何の疑問にも思わなかった。
「もうちょっと待って見つけてもらえなかったら、迷子センターに行こうかなと思ってました」
「一体なんて呼び出すつもりだったんですか」
「そりゃあ『XX市からお越しのたがみるいくん、お姉さんがお呼びです』って」
なんということだ。僕は今年二十八になったのだけれど、この年で迷子センターにお呼び出しされるのはご免被りたい。
「心配じゃなかったですか」
「全然」
僕は「永遠に出会えなかったらどうしよう」などという不安に苛まれていたというのに、島崎さんは泰然としている。
「田上さんは私を置いて帰っちゃうようなことはしないだろうと思いましたし」
「それは」
そんなことは、絶対にしないけれど。
「クラゲって何考えてるのかな、とか思ってました。ほら、見た感じすごく優雅じゃないですか」
「何も、考えていないと思います」
「へっ?」
咄嗟に僕が答えてしまったら、島崎さんの顔中にはてなが浮かんだ。
「クラゲには脳がないので」
「え、じゃあ、クラゲはどうやって動いてるんです? 脳みそなしで」
白い指がぷかりと浮かぶクラゲの一つを示す。それはふわふわと漂うように水槽を泳いでいる。
「散在神経というものが体中にあるので。それで水流や他の生き物を検知して反射的に動いているんです」
「はんしゃ」
島崎さんの顔のはてなは、まだ消えない。
「例えば、熱いものに触ってしまったら咄嗟に手を引っ込めるじゃないですか。ああいう時、考えるよりも先に体が動いている。そういうのの繰り返しです」
運動の全てに、こちらが理解できる明確な理由があるわけではない。
原理はあっても、思考は存在しない。
説明すると、島崎さんはぱちぱちと瞬きをした。黒目がちな目がまん丸になって、不思議な顔でずっと僕を見ている。
「田上さん、ずっと思ってたんですけど」
なんだろう。聞いてしまうのが、少し怖いような。こういうことを延々と話す男はモテないと聞いたのを思い出した。
どうしてだろう。今までそんなこと気に掛けたことなんてなかったのに。
ただ僕の隣で、彼女はずっと何を考えていたのだろう。それが気になって仕方がなかった。
「さっきのサメの時もそうでしたけど、すっごい詳しいですよね」
「ああ、それは」
小さい頃、僕はずっと探していた。
この体には、たとえ八分の一とはいえ、人ならざるものの血が混ざっている。
自分が何者なのかを、僕はずっと知りたかった。
「勉強したんですか?」
哺乳類を手始めに、色んな生き物の生態を調べた。人間に混じって吸血鬼が生きるということがどういうことなのか、僕は分かりたかったのだ。
実は違う生き物同士がともに生きることは、自然界ではそれほど珍しいことではない。
例えばクマノミとイソギンチャクはうまくやっている。
クマノミはイソギンチャクの毒の触手に守ってもらう代わりに、イソギンチャクの体についた寄生虫を食べる。これを「共生」という。
それなら、人と吸血鬼の関係はなんなのか。
これは「寄生」なのか「共生」なのかそれとも別の何かなのか。幼い僕には判断がつかなかった。
結局のところ、今も判断はついていないけれど。
「そんなところです」
僕がそうはぐらかすと、島崎さんはそれ以上は聞いてこなかった。ゆっくりと伸びをして、そのまま両手を膝の上に乗せる。
「じゃあでも、『悩む』ってことは脳みそがあるからできるんですね」
そう、ぽつりと零した。
「というと?」
今度は僕が聞き返す番だった。
「優雅に見えるくらげには悩みがないし脳みそもないんですよね」
僕は頷く。
そうだ。クラゲはただ反射で動き、泳ぎ、生きている。
「私たちは、その、あんまり優雅じゃないですけど、脳みそがあって、悩む」
僕の方を向いて、島崎さんはくしゃりと眉を下げた。
「だったら悩んでるってことは、なんだか人間だってことみたいだなって」
僕ははっと息を呑んだ。
ああ、そうか。
だとしたらこの僕も、人間であることができるかもしれない。
ずっと自分の形が分からなかったけれど、それでも。
「そう、ですね」
思考をやめない限り、考え続ける限り。
愚かでも、無様でも、人間であることができる気がした。
クラゲはまだ、僕らの目の前でぷかぷかと、とても気持ちよさそうに泳ぎ続けている。
「そろそろ、行きましょうか」
「そうですね」
僕が立ち上がると、島崎さんが「えいや」と勢いをつけて立ち上がる。
ロングスカートの裾がクラゲのようにひらりと揺れる。
今なら繋げるなと思った。
その手を取って、僕はこの手を離さないと言いたかった。
もう二度と、君を迷子にさせないと、小さい頃の島崎さんに言ってあげたかった。
けれど、僕は伸ばそうとした手を引っ込めて、心の中に留め置いた。
ただもう少し、このやわらかさの中を漂っていたかったので。




