7.普通の人
「はぁ……」
私はたまらずテーブルの上に突っ伏した。
「あら、千夏ちゃん。もうお腹いっぱい?」
「まあ、そうですね……」
人が一日に浴びていい純愛には限りがあると思う。これは容易く限界突破だ。
だって、眩しすぎて目眩がする。
「ここのスペシャリテはミルフィーユよ。パティシエがね、注文を受けてからクリームを挟んでくれるからパリッパリ。絶対に食べた方がいいのに」
気分的にはお腹いっぱいだけど、スペシャリテは気になる。パリッパリ。
「すみません。ミルフィーユ一つお願いします……」
「わたしもいただくわ。あとシャンパンを二つね」
私が呻いている前でじゅりさんはにこにことシャンパンまで追加している。
この人は本当に欲求に正直だ。羨ましいぐらいに。
「みっちゃんは」
何を思ってそんなことを言ってのけたのだろう。
この世に自分よりもおいしい血の人は沢山いる。
たとえどんなに努力しても、その選択肢を完全に取り除くことはできない。
けれどその無限の可能性と、己の存在の全部を賭けて。
そして、彼は彼自身を選ばせた。
――おれはいつか、すっごい好きになった女の子に告白して、両思いになって、それからその血を飲ませてもらうのが夢なんだ
それはあの田上さんの中学二年生みたいな夢の裏返しだ。
例えば「他の女の人の血を飲まないで」と頼まれたら、田上さんはそれを死ぬまで守ってくれるだろう。そもそも、彼は好きな人の血以外は飲まないらしいけど。
それでも、一生に一度しか恋をしないということもないだろう。
契約は田上さんから残りの選択肢を奪ってしまう。そういうものだ。
「みっちゃんがどうかした?」
今思っていることを、じゅりさん相手に全部口に出す勇気が私にはなかった。
「……写真とかあります?」
代わりにただの恋バナに話を戻す。いや、気になっていたのは確かだし。
「もちろん、あるわよー。最近のだけど」
待ってましたとばかりにじゅりさんが私にスマートフォンを向ける。
「おお……」
映っていたのはどこかに旅行した時の二人の写真のようだった。じゅりさんの隣に背の高い男の人がいる。じゅりさんはそれはそれは嬉しそうに、彼の腕に腕を絡めていた。
躊躇いがちにこちらを見る目が、そっくりだった。
シルバーフレームの眼鏡を掛けていて、やわらかそうな髪をしていた。
表情の乏しいところも、それでいて無愛想には見えないところも、よく似ている。強いていえば、みっちゃんの方が目つきが悪いぐらいか。
「どう? わたしのみっちゃん。かっこいいでしょ」
じゅりさんの声が弾んでいる。まるではじめての彼氏を友達に自慢する女子高生みたいに。
間違いなく、この人達の延長線上に田上さんはいる。
「そう、ですね」
かっこ悪いということはないと思う。スラッとしてるし清潔感があるし、上司にいたら心強そうな感じではある。
ただ、じゅりさんと釣り合うほどには思えなかった。
すれ違った誰もがじゅりさんのことを覚えていても、みっちゃんの姿はぼんやりと霞んでしまうだろう。
それぐらい、良くも悪くも普通の人だ。
「昔のみっちゃんも、本当にかっこよかったのよ。わたし死ぬ時の走馬灯は、あのみっちゃんを二時間ぐらい見たいわ」
「それってただの映画じゃないですか」
思わずツッコミを入れてしまったところで、静かにミルフィーユの皿が置かれた。シャンパンはふわふわと金色の泡を浮かべている。それを見ていると、浮かんできたことがあった。
「あの、もうひとつ聞いてもいいですか?」
「いいわよ。なんでも聞いてちょうだい」
じゅりさんは楽しそうにフォークを片手に、ミルフィーユと向かい合っている。さしずめ、どこから食べるか吟味しているようだ。
「血って、そんなにおいしいんですか?」
たとえ自分の血を飲んでみたとしても、吸血鬼の味覚とは違うはずだ。じゅりさんや田上さんが惹かれる理由を、私やみっちゃんは永遠に理解することはできない。
「ええ、とってもおいしいわね」
「みっちゃんは、特においしいんですか?」
「そりゃあ、もちろん」
じゅりさんはミルフィーユをずいっと横に置いて、スプーンで輝く器の白いスイーツをすくい取る。
「それは」
私はそのスイーツの名前も知らないこと気が付いた。もちろん注文もしていない。
だから、どんな味なのか分からない。
「ああ、これはブランマンジェよ。アーモンドの香りを移した牛乳を生クリームとかと合わせてゼラチンで固めるの。わたしの大好物」
人の血を飲むのに、それでもじゅりさんもやっぱり牛乳がすきなのか。
真っ白なそれを嬉しそうに口に運んでからじゅりさんは言った。
「わたしにとってみっちゃんは、うにとシャトーブリアンとブランマンジェをぜーんぶ合わせても敵わない、この世界で一番のスペシャリテよ」
ミルフィーユを食べ終えると、じゅりさんは夕方の新幹線で自宅に帰るのだと言った。私は預けていたトランク風のスーツケースを優雅に引っ張る彼女を駅まで見送ることにした。
「ねえ、今日のことるーちゃんには」
ナイショにしてね、とばかりにじゅりさんは片目をつぶってみせる。
「はい」
また田上さんに言えないことが増えてしまった。そもそも、次会った時に彼にどんな風に話せばいいのかも分からないけれど。
「大丈夫」
じゅりさんはとん、と励ますように私の肩を叩いた。励ましてくれるのは嬉しいけど、「うちの娘に」とか思われても面倒なだけだ。
「そう、ですかね」
「絶対に、大丈夫よ」
「じゅりさん。一体なんの根拠があって、そんなに言い切れるんです?」
「根拠なんかないけど、それでも分かるの」
じゅりさんは俯いた私の顔を覗き込むようにする。
青い瞳と目が合ったら、彼女はにこりと微笑んだ。誰もを魅了してやまない、魔性の微笑み。
そのままじゅりさんは私の首筋に顔を寄せてきた。同性だというのに、なんだか無性にどきどきする。鼻先に香る、知らない国の花のような甘い香り。
「だって」
じゅりさんはすうっと息を吸い込んだ。くすりと耳元で笑う気配がする。
「あなたとってもいい匂いがするもの」
「へっ」
「じゃあ、またね」
顔を上げた時には、もうそこにじゅりさんはいなかった。
まるで本物の吸血鬼が、霧となって瞬く間に消えてしまうみたいに。
田上充志(54):通称みっちゃん。174cm AB型。工学部卒で一級建築士。
物理が得意。昔から視力が悪くて眼鏡をかけている。プロの愛妻家(ただし愛情表現は分かりにくい)




