10.同じ水槽で
田上さんは、自分が誰かを傷つけてしまうことを極端に恐れる。
おそらくは、それが驚くほど容易くできてしまうがゆえに。
おいしく作られたこれは、けれど彼がずっと身の内に抱えていたものだ。
それを見て、思う。
サメはサメで、アジはアジで、私は人間で、田上さんは吸血鬼だ。
その事実は、これからもどうしようもない。
私たちは、同じ生き物には、決してなれない。
それでも、同じ水槽にいることはできるだろうか。
「田上さん、顔を上げてください」
私がそう言っても、田上さんは急に彫像になってしまったかのように動いてくれなかった。
仕方がない。ならば、こうだ。
「るいさん」
「えっ」
弾かれたように田上さんが顔を上げる。
見開かれた青と見つめ合った。
「私、名前が『千夏』って言うんですけどね」
「それは、はい、存じ上げていますが」
「昔、友達には『ちな』って呼ばれてたんです」
ランドセルを背負って日が暮れるまで遊んでいたような、そんな頃。私はそう呼ばれていた。
親しい子しか呼ばない、特別な名前だった。
「『千夏』は純和風の名前なんですけど、『ちな』だとちょっと外国の人みたいだなって、思ってたんです」
「ああ、それは、確かに」
どこにも行けずにあの家にいるしかなかった私とって、異国の風は魅力的だった。
「『田上』と『島崎』だと、すっごい遠い人みたいじゃないですか」
現実に私たちはただの“おとなりさん”なのだから、それは致し方ないことなのかもしれないけど。
「でも、『るい』と『ちな』ならなんかこう……」
もう少し、近くにいられる気がする。
偽装彼女とも、赤の他人のどちらとも、違う距離感になれるかもしれない。
人間と吸血鬼も、同じテーブルを囲むことはできるはずだ。
私はそう、信じてみたかった。
「なんか、こう?」
田上さんが真っ直ぐに私を見ている。ただ、うまい言葉が出てこなくて、
「コンビみたいじゃないですか?」
途端に漫才みたいになった。別にお笑いをしたいわけではないのだけれど。
そこでたまらずとばかりに、田上さんが噴き出した。
大きな体を折り曲げて肩を震わせている。
「そんなに笑わなくても、いいじゃないですか。そりゃあ、ちょっと変なこと言っちゃいましたけど」
「いや、すみません。変だとは思っていないです」
田上さんは、グラスに入ったお茶を飲み干してやっと人心地ついたようだった。
「けどそうだな……。確かに言い方に悩みますね」
すっと、目を細めて窓の向こうを見る。ひとつ息を吐いてからこう言った。
「僕は昔、『ぐりとぐら』の絵本が好きだったんですよね」
それなら、私も知っている。二匹のねずみが表紙に描かれたかわいい絵本だった。
「ふかふかのパンケーキ作るやつですか?」
「そう、それです。まあ正確には、パンケーキではなくてカステラらしいですけど」
「そうなんだ」
黄色いふわっふわのカステラは私も憧れだった。二匹は、大きなそれを協力して作って食べるのだ。
「時々僕、無性に餃子が作りたくなるんですけど」
「ぎょうざ」
「切りたいだけ野菜を切ると、包む頃にはさすがに面倒になってくるんですよね。一人で山盛りの餃子を食べるのも空しいですし」
そうか。餃子も野菜をみじん切りにする料理だった。
「なので、もしよければ包むのを手伝っていただけないでしょうか」
それはこの万事控えめな人にしてはとても珍しい、お願いだった。
「僕の思う『コンビ』は、そんな感じなので。あ、でも確かあの二匹は兄弟だったのかな」
田上さんは記憶を辿って思い悩んでいる。
頭の中からお笑いコンビが一掃されて、代わりに赤と青のチョッキを着た野ねずみがてくてく歩いてくる。
これは、悪くない。
「……食べても、いいですか?」
「それは、もちろんです。ぜひ食べる方も手伝っていただけると」
「私、多分あんまり上手じゃないんですけど、それでもいいなら」
実家にいる時は姉弟で餃子作りを手伝ったことがある。
けれど、毎回ひだの数がばらばらになる。タネを入れすぎたり少なすぎたりヨレたりする。
すぐにどれを私が作ったのかが分かってしまう、大変個性あふれる仕上がりになるのだ。
「ああ、それには少しコツがあるので。大丈夫ですよ」
その大きな手でちまちま餃子を包んでいるのを想像すると、私もくすりと笑えて来てしまった。
「あと、私もお願いがあるんですけど、いいですか?」
「どうぞ」
「食べてみたいお菓子があって」
じゅりさんがおいしそうに食べていたあれ。私はどうしても食べてみたかった。
「ブランマンジェって、作れますか?」
「ああ。ブランマンジェですか」
そこで田上さんは、少し怪訝そうな顔をした。
「やっぱり難しいお菓子なんですかね?」
「いえ、そこまでは。やることはいわゆる牛乳プリンなので、比較的簡単な部類だと思います。ただ」
青い目に光が宿る。それは探るように私を見つめる。「あれは、母の好物なんですよね」
「もしかして、母がまた何か失礼なことを」
「いえいえ、何もないですよ!」
ちゃんと田上さんにもあるじゃないか、吸血鬼の本能。
彼もこういう時異様に鋭い気がする。
「本当に?」
ごめんなさい。本当は、あなたのお母さんとたらふくケーキを食べました。
これはでも、ナイショにすると約束してしまったし。
失礼なことは何もされていないので、大丈夫なはずだ。
「はい、何もないです」
「ならいいんですが」
私は大きく二つ頷いた。
じゅりさんの好物をこの人が作ってくれるのなら、それが一番正しい形のような気がする。
「では、次はよろしくお願いします」
意を決したように、田上さんが背筋を伸ばす。
「ちな、さん」
まだ少しむず痒いような感じはあるけれど、彼女のフリよりはずっといい。
「はい。るいさん」
将来的にこの間柄をどう呼ぶべきかは検討の余地があるとして、当面の間は「コンビ」ということでいい気がした。
そう、『るいとちな』的な意味で。
お読みいただきありがとうございました。
いいね・ブクマ・評価・感想頂けますと励みになります。
色んな人に応援していただいたので、無事?続き「本当に水族館に行くのか」&「お母さん登場編」を書くことができました!
冬→春ときたので、夏と秋のお話も書こうかなと思っています。
田上さんが血を吸えるようになるところまでは書きたいなと思っているので、ブクマしつつお待ちいただけると嬉しいです。
またお会いできると嬉しいです!




