第十四話 三種の神器
朝日は。
確かに昇っていた。
黒龍は消え。
徐福も。
武振熊も。
二千年にわたる呪いは終わったはずだった。
それなのに。
神崎神社跡に立つ誰もが。
朝を感じることができなかった。
風がない。
鳥の声もない。
木々さえ。
呼吸を止めている。
その中心に。
白い髪の男が立っていた。
長く伸びた髪。
白い衣。
その上を覆う、漆黒の羽織。
額には。
閉じられた、もう一つの目。
男は何もしていない。
術も。
殺気も。
霊力さえ放ってはいない。
ただ。
そこに在る。
それだけだった。
だが。
十六氏族は動けなかった。
春日鎮臣の膝が。
石畳へ落ちる。
何千もの戦場を越えてきた身体が。
立つことを拒んでいた。
――立て。
己へ命じる。
――武人が、敵を前に膝をつくな。
だが。
指一本、動かない。
隣では。
白鹿が地へ伏し。
角を垂れていた。
玉置岩戸は。
拳を握ろうとしていた。
大地を砕く拳。
山さえ殴り伏せる腕。
しかし。
筋肉が動かない。
――なんだい、これは。
――恐怖なんかじゃない。
――身体が、最初から勝てないと知っている。
賀茂雷玄は。
口の中で呪を唱えようとした。
声が出ない。
舌が動かない。
雷も。
式神も。
一つとして応えなかった。
――術式が封じられたのではない。
――術という概念そのものが、この者の前では許されていない。
諏訪洸牙は山の気配を探した。
何も聞こえない。
熊野の山々が。
この男へ頭を垂れている。
――山が。
――神に従っている。
八幡家当主は。
初めて理解できないものを前にしていた。
権力。
財力。
人脈。
国家さえ動かす現実の力。
そのすべてが。
目の前の存在には何の意味も持たない。
――交渉という行為すら。
――成立しない。
村雨響香は。
双刀へ手を伸ばそうとした。
届かない。
戦うためではない。
ただ。
剣士として。
刃へ触れていたかった。
――小次郎。
――お前は、こんなものを前にしても刀を抜けたか。
因幡剛は。
雷切の柄を睨んでいた。
徐福を斬った刀。
日本中の祈りを受け取った一太刀。
それでも。
身体が動かない。
――ふざけんな。
――俺は神じゃねえ。
――だからこそ、動けるはずだろ。
歯を食いしばる。
血が滲む。
それでも。
剛の指は。
雷切へ届かなかった。
車折千代の神楽鈴も鳴らない。
ウカはコンを抱きしめたまま。
顔を上げることができない。
コンでさえ。
言葉を失っていた。
オシラサマの白馬は。
完全に地へ伏している。
オシラサマは震える手で。
その首を撫でていた。
――だいじょうぶ。
――だいじょうぶだよ。
そう伝えたい。
だが。
声にならない。
椿玄道は。
道を見失っていた。
猿田彦の血を継ぎ。
あらゆる場所へ道を開いてきた男。
しかし。
目の前の存在へ続く道だけは。
最初から存在していない。
――ここより先は。
――人の歩く道ではない。
十六氏族。
日本神話の系譜を継ぐ者たち。
神々の血を。
術を。
祈りを。
武を受け継いだ守護者たち。
その全員が。
一人の男を直視することすらできなかった。
空海は。
錫杖を握っていた。
手が震えている。
千年を待った。
この時代を。
この瞬間を。
弥勒の世を。
それでも。
実際に目の前へ現れた存在は。
悟りの果てで想像したものさえ、遥かに超えていた。
「み……」
空海が。
声を絞り出そうとする。
その瞬間。
白髪の男が。
ゆっくりと空海の方を向いた。
両目は閉じたまま。
それでも。
見られたと理解した。
魂の奥。
生まれた瞬間から。
千年を待ち続けた理由まで。
すべてを。
「空海よ」
静かな声だった。
大きくもない。
強くもない。
なのに。
日本全土へ響いたように感じられた。
「余を」
「待っておったのだな」
空海の呼吸が止まる。
男は僅かに微笑む。
「千年余りか」
「人には」
「長かったであろう」
空海は答えられない。
涙だけが。
頬を伝った。
待ち望んでいたからではない。
恐れていたからでもない。
ただ。
己の生涯が。
この瞬間へ続いていたことを理解した。
男は。
再び正面を向く。
そこに。
立っている者が三人いた。
神崎蓮。
月乃瀬澄華。
天城煌。
十六氏族の中で。
その三人だけが。
膝をついていなかった。
蓮の右目は青く輝いている。
だが。
NOESISは沈黙していた。
『解析不能』
それすら表示されない。
観測するという行為自体が。
拒絶されている。
澄華の白銀の瞳には。
何も映っていなかった。
過去も。
未来も。
魂も。
男の内側には。
鏡が映すべきものが存在しない。
煌は。
草薙剣の柄へ手を置いていた。
抜いてはいない。
抜けば死ぬ。
理解している。
それでも。
手を離さなかった。
男は三人を見る。
閉じた瞳で。
一人ずつ。
確かめるように。
「八尺瓊勾玉」
蓮の右目が疼く。
「八咫鏡」
澄華の胸元で。
白銀の光が震える。
「草薙剣」
煌の刀が。
鞘の中で低く鳴った。
「三つとも」
「ようやく揃ったか」
蓮は。
声を出す。
喉が焼けるように痛い。
それでも。
問いを口にした。
「あなたは」
「何者だ」
十六氏族の心臓が。
一斉に跳ねた。
その存在へ。
問いを投げかける。
それがどれほど恐ろしい行為か。
誰もが理解していた。
だが。
男は怒らなかった。
むしろ。
少しだけ楽しそうに笑った。
「人は」
「余を多くの名で呼んだ」
「未来仏」
「救世主」
「裏天皇」
朝日の光が。
男の背後で円環を描く。
「だが」
「名など、何でもよい」
澄華が尋ねる。
「私たちに」
「何を望んでいるのですか」
男は。
閉じた瞳を澄華へ向ける。
「望んではおらぬ」
「見定めるだけだ」
「人が」
「神なくして歩めるのかを」
煌の目が鋭くなる。
「試すというのか」
「俺たちを」
「違う」
男は静かに答える。
「人の世そのものを」
その言葉と同時に。
三種の神器が。
激しく共鳴した。
蓮の右目。
澄華の八咫鏡。
煌の草薙剣。
青。
白銀。
金。
三つの光が。
男へ向かって伸びていく。
剛が叫ぼうとする。
――蓮!
声が出ない。
天明も。
春日も。
響香も。
誰一人。
三人へ手を伸ばすことができない。
男の額。
閉ざされていた第三の目が。
ゆっくりと開いた。
そこには。
瞳ではなく。
無数の星があった。
過去。
現在。
未来。
人が選ばなかった可能性まで。
すべてを映す目。
紫白の光が。
世界を満たす。
『空間座標――消失』
NOESISの声が。
一度だけ響いた。
『次元境界を――』
途切れる。
蓮の視界から。
熊野が消えた。
朝日も。
神崎神社跡も。
仲間たちも。
すべて。
白い光の向こうへ消えていく。
最後に聞こえたのは。
弥勒の。
穏やかな声だった。
「さあ」
「人の答えを」
「余に示せ」




