第十三話 夜明けのあと
夜が、明けた。
長かった。
あまりにも長かった夜が。
熊野の山の向こうへ。
静かに沈んでいく。
黒龍は消えた。
徐福も。
武振熊も。
二千年にわたり日本を覆っていた呪いは。
朝日に溶けるように、姿を消していた。
神崎神社跡。
焼け落ちた鳥居。
砕けた石畳。
戦いの中心には。
刃こぼれした両剣薙刀だけが、地面へ突き刺さっている。
誰も。
すぐには声を発することができなかった。
勝った。
そのはずだった。
それなのに。
喜びよりも先に訪れたのは。
巨大な何かが終わったあとの。
空白だった。
因幡剛は、自分の右手を見ていた。
震えている。
雷切を振るった手。
黒龍と徐福をつないでいた二千年の契約を斬った手。
「……俺が」
剛は呟いた。
「本当に、斬ったのか」
隣に立つ村雨響香が。
雷切の鞘へ手を添える。
「斬った」
短く答える。
「だが」
朝日に照らされた戦場を見渡した。
「お前一人の剣ではない」
剛は少しだけ笑う。
「分かってるよ」
「日本中の奴らが」
「一緒に斬ったんだ」
そして。
雷切を鞘へ収めた。
かちり。
戦いの終わりを告げるような。
静かな音だった。
月乃瀬澄華は。
地に刺さった両剣薙刀を見つめていた。
白銀の瞳に。
二つの小さな光が映る。
朱童。
白夜。
その間へ。
長い戦いを終えた武振熊が歩いていく。
三人は何も言わない。
ただ。
遠い昔の旅を再開するように。
並んで光の向こうへ消えていった。
澄華は目を閉じる。
「……もう」
「大丈夫です」
誰に向けた言葉なのか。
誰も尋ねなかった。
天城煌は。
両剣薙刀の前へ立っていた。
「武を」
「収めたか」
その隣へ。
春日鎮臣が白鹿を伴い、歩み寄る。
片目で。
武振熊が残した武器を見据えた。
「うむ」
低い声。
「武とは」
「勝つことでも、敵を滅ぼすことでもない」
「己が振り上げた戈を」
「己の意志で止めることだ」
煌は黙って聞いている。
「武振熊は」
「最後にようやく」
「自らの武を終えた」
煌は草薙剣を収めた。
「……そうか」
それだけだった。
だが。
その声には。
一人の武人へ向けた、確かな敬意があった。
「終わったぁぁぁ……」
安倍天明が。
石畳へ大の字に倒れ込んだ。
「もう無理や」
「ワシ、千年分くらい働いたで」
「次の千年は休ませてもらうわ」
玉置岩戸が、天明の腹を軽く蹴る。
「寝るな!」
「負傷者の治療を手伝いな!」
「ワシも負傷者や!」
「口が元気な奴は軽傷だよ!」
「陰陽師への扱い、雑すぎへん!?」
そのやり取りに。
ようやく。
小さな笑いが起きた。
戦場に。
人の声が戻ってきた。
車折千代は。
祈りを束ねた笹の葉を胸へ抱いていた。
「ちゃんと」
「届いたねぇ」
笑っている。
けれど。
頬には涙が流れていた。
天空から。
白馬がゆっくりと降りてくる。
オシラサマは白馬の背中へ突っ伏したまま。
力なく手を上げた。
「みんなのお願い」
「すっごく重かったよぉ……」
千代が笑う。
「お疲れさま」
「でもねぇ」
オシラサマは、顔だけを上げた。
「重かったけど」
「すごく、あったかかった」
その言葉に。
誰も何も返さなかった。
返す必要がなかった。
ウカは、傷ついた白狐たちを一匹ずつ撫でていた。
コンが胸を張る。
「此度の大勝利!」
「まさしくウカ様の神威があってこそ――」
ウカは静かに首を振る。
そして。
剛。
蓮。
澄華。
煌。
戦い抜いた者たちを見る。
「……みんなで」
コンは一瞬、口を閉じた。
やがて目元を拭う。
「はい」
「その通りにございます」
賀茂雷玄は。
消えていく日輪と月輪を見上げていた。
「陰陽寮が」
「千年を費やしても届かなかった術が」
「人々の祈りによって完成するとは……」
籠真名美は。
地面を流れる小さな水へ指を触れる。
水が。
朝日の色を映していた。
「滝が」
「静かになりました」
「もう」
「黒い声が聞こえません」
諏訪洸牙は熊野の山々を仰ぐ。
木々が揺れる。
鳥たちが鳴き始める。
「山が」
「息をしている」
八幡家当主は。
すでに端末を取り出していた。
「負傷者の搬送路を確保する」
「神崎神社の再建費用も、すべて八幡が持つ」
剛が目を丸くする。
「勝った直後に金の話かよ」
「勝った直後だからだ」
八幡は冷静に答える。
「祈りだけでは、屋根は建たん」
「うわ」
天明が寝転んだまま笑う。
「一番現実的な神様やな」
椿玄道は。
朝日の差す山道を見ていた。
猿田彦の血を継ぐ。
道を開く者。
「道は」
「開かれた」
蓮が振り返る。
「うん」
玄道は答えない。
その大きな顔に。
僅かな影が落ちる。
「だが」
「まだ」
「終着には至っておらぬ」
風が。
止まった。
ほんの一瞬。
誰も、その違和感に気づかなかった。
空海を除いて。
空海だけが。
徐福の消えた場所を見つめていた。
笑っていない。
天明が上体を起こす。
「どないしたんや」
「黒龍は消えた」
「徐福も終わった」
「もうちょい嬉しそうな顔したらどうや」
空海は答えなかった。
視線を。
三人へ移す。
神崎蓮。
月乃瀬澄華。
天城煌。
八尺瓊勾玉。
八咫鏡。
草薙剣。
徐福を倒すために集められたはずの、三種の神器。
だが。
役目を終えた神器は。
消えるどころか。
今まで以上に強く脈動している。
蓮の右目が青く輝く。
『霊的変動を検出』
『発生源――特定不能』
『三種の神器、共鳴を開始』
蓮が顔を上げる。
「何だ……?」
空海が呟く。
「違った」
「何がや」
「三種の神器を持つ三人は」
空海の声が僅かに震える。
「徐福を倒すために」
「この時代へ生まれたのではない」
天明の笑みが消えた。
「空海」
「何を知っとる」
空海は。
朝日に満ちた空を見上げる。
「徐福は」
「門を塞いでいたにすぎない」
その瞬間。
朝日が。
さらに明るくなった。
暖かいはずの光が。
白く。
眩しく。
あまりにも神聖なものへ変わっていく。
鳥の声が止まる。
木々の揺れが止まる。
オシラサマの白馬が。
突然、前脚を折った。
白狐たちが一斉に地へ伏せる。
春日の白鹿さえ。
頭を垂れた。
十六氏族の誰もが。
理由も分からないまま。
その場から動けなくなる。
膝が落ちる。
呼吸が浅くなる。
顔を上げられない。
恐怖ではない。
殺気でもない。
そこに存在するだけで。
人と神との隔たりを。
魂が理解させられていた。
『対象を観測』
NOESISが起動する。
『解析――』
表示が乱れる。
『解析不能』
『生命反応――判定不能』
『神性――測定限界を超過』
青い文字が。
すべて消えた。
空海は。
錫杖を握りしめた。
その手さえ。
震えていた。
「この時を」
「待っていたのか……」
朝日の中。
誰もいなかった場所に。
一人の男が立っていた。
歩いてきたのではない。
現れたのでもない。
最初から。
そこにいたかのように。
十六氏族すべての頂点。
神でも。
仏でも。
人でもない存在。
空海が。
その名を口にする。
「弥勒……」
男は。
地に伏す十六氏族を見渡した。
そして。
穏やかに微笑んだ。
「見事であった」
「人の子らよ」




