第十一話 人々の祈り
天に日輪。
地に月輪。
二つの巨大な円環が。
熊野の夜を覆っていた。
日本中から集められた祈りが。
光の奔流となって、神崎神社跡へ降り注いでいる。
安倍天明が空を見上げた。
その瞳の奥で。
千年前の安倍晴明の記憶と。
今を生きる安倍天明の意志が、一つになる。
「これでいける」
扇を開く。
「時は満ちた!」
空海が静かに目を閉じた。
両手で。
大日如来の印を結ぶ。
擦り切れた黒い袈裟が。
祈りの風に揺れた。
「遍く光よ」
低い声が。
日本中の地脈へ響く。
「名なき祈りを」
「一つに」
小さな祠。
古い寺。
家の仏壇。
病室。
学校。
海。
山。
誰にも知られず。
誰かの無事を願った祈りが。
白い光となって空海のもとへ集まる。
天明が扇を振るう。
一閃。
天と地の境界が、光によって切り分けられた。
「陽は天へ」
日輪が輝く。
「陰は地へ」
月輪が大地の底から浮かび上がる。
「日と月」
「相反する力を」
天明の指先が円を描く。
「一つの環となせ!」
十六氏族が。
一斉に力を解放した。
春日家の武神の霊力。
賀茂家の雷と結界。
稲荷家の数千の白狐。
玉置家が鎮めた大地の力。
諏訪家が山々から運んだ祈り。
籠家が水の記憶から拾い上げた声。
八幡家が守った人々の暮らし。
神崎。
月乃瀬。
天城。
因幡。
安倍。
十六の道が。
一つの輪へ結ばれていく。
天空。
オシラサマが白馬とともに駆けた。
「みんなの祈り」
薄桃色の髪が、光の中で揺れる。
「ちゃんと届けるからねぇ」
白馬の蹄が。
夜空を蹴る。
ぱから。
ぱから。
その足跡から。
無数の白い光が降り注いだ。
天の日輪と。
地の月輪。
二つの円環が徐福と黒龍を挟み込む。
天明と空海が。
背中合わせのまま、同時に声を上げた。
「最大秘法――」
陰陽道。
真言密教。
千年の時を越えて完成した。
ただ一つの封印。
「日月双極――」
「黒龍封獄!」
世界が。
白く染まった。
巨大な日輪が天から降り。
月輪が地から浮かび上がる。
二つの輪が。
黒龍の巨体を挟み込んだ。
咆哮。
黒龍が身体を捩る。
だが。
動けない。
白い光が注連縄となり。
首。
胴。
翼。
四肢。
黒龍の身体を幾重にも縛り上げていく。
二千年分の憎悪が。
黒い煙となって剥がれ落ちた。
嫉妬。
欲望。
恐怖。
執着。
人が人へ向けた呪いが。
白い光の中で焼かれていく。
「やめろ!」
徐福が叫んだ。
漆黒の衣を振り乱し。
光の輪へ手を伸ばす。
「それはワシの力だ!」
「ワシが二千年かけて育てた!」
「奪うな!」
黒龍が暴れるたび。
徐福の胸から伸びた黒い線が、大きく脈動する。
蓮の右目が青く輝いた。
『対象・黒龍』
『封印術によって行動を停止』
『対象・徐福との霊的接続を確認』
『切断可能時間――三・二秒』
蓮が叫ぶ。
「剛!」
因幡剛が振り返る。
「黒龍と徐福の因縁を断ち切る!」
蓮の青い視線が。
徐福の胸にある接続点を示した。
「徐福の身体へ」
「唯一、消えない傷を残した技がある」
因幡小次郎。
二千年を生きた徐福へ。
初めて、人間として傷を刻んだ剣士。
「雷切だ」
剛の手が。
刀の柄へ触れる。
「今」
「日本中の祈りを雷切へ込める」
蓮は剛を見た。
「お前の一太刀で」
「黒龍と徐福の接続を斬れ!」
鈴の音。
しゃん。
しゃん。
車折千代が舞っていた。
天の日輪と。
地の月輪。
二つの円環をなぞるように。
笹の葉が。
光の境界を撫でていく。
笑うように。
泣くように。
千代は舞った。
人々の願いを受け取り。
祈りを剛へ渡すために。
やがて。
舞が止まる。
千代は笹の葉を天へ掲げた。
その先に。
日本中から集まった膨大な祈りが渦を巻いている。
千代は。
天から地へ光を落とすように。
ゆっくりと笹を振り下ろした。
その先を。
因幡剛へ向ける。
「剛」
千代が笑った。
「行ってこい」
剛は。
雷切を鞘から抜いた。
刀を天へ掲げる。
その瞬間。
祈りが落ちた。
轟雷。
白い光が。
雷切へ直撃する。
剛の身体を。
日本中の祈りが包んだ。
それは。
神の怒りではない。
誰かを殺したいという願いでもない。
生きてほしい。
帰ってきてほしい。
終わらせてほしい。
人々の。
名もなき祈りだった。
徐福が剛を見る。
「神の血も持たぬ小僧が!」
「ワシを斬れるものか!」
剛は答えない。
腰を落とす。
刀を鞘へ収める。
居合の構え。
光が落ちる。
その光よりも。
速く。
剛の姿が消えた。
徐福の横を。
一筋の白い雷が通り過ぎる。
静寂。
剛は。
徐福の背後に立っていた。
「これが」
雷切を鞘へ戻す。
「雷切だ」
かちり。
刀が収まる音が響いた。
徐福は自分の身体を見下ろした。
血は出ていない。
傷もない。
痛みさえ感じない。
「……何だ」
自らの胸へ手を当てる。
「ワシは」
「斬られておらぬ……」
その時。
黒い線が。
音もなく断ち切れた。
徐福の身体が震える。
黒かった髪が。
根元から白く変わっていく。
張りのあった皮膚に。
深い皺が刻まれる。
背が曲がる。
指が痩せ細る。
失われていた二千年分の時間が。
一瞬で。
徐福の身体へ押し寄せた。
「やめろ……」
掠れた声。
「ワシから……」
膝が崩れる。
「永遠を、奪うな……」
斬られたのは。
徐福の身体ではない。
黒龍と。
徐福をつないでいた契約。
老いと死を恐れた男が。
二千年前に差し出した魂の一部。
宿主を失った黒龍が。
天と地の円環の中で咆哮した。
身体に亀裂が走る。
黒い鱗が剥がれ。
巨大な身体が崩れていく。
「た……」
黒龍の声が。
徐福の頭の中へ響く。
「す……け……」
その声は。
途中で途切れた。
黒龍の身体が。
黒い灰となって砕け散る。
白い注連縄が。
そのすべてを封印の輪へ引き込んでいく。
やがて。
声は。
完全に聞こえなくなった。
徐福は。
石畳に両手をついていた。
黒龍はいない。
不老不死もない。
歴史を支配する力も。
神を超えようとした野望も。
すべて失った。
そこにいたのは。
黒龍の誘惑に負け。
愛した者を捨て。
仲間を裏切り。
二千年間。
老いと死から逃げ続けた。
一人の。
哀れな老人だけだった。




