第十話 日月双極
日本中から集まった祈りが。
巨大な日輪となって、熊野の空を覆っていた。
白。
金。
淡い青。
名も知られぬ人々が。
誰かの無事を願い。
誰かの帰りを待ち。
明日が今日より少しだけ良くなることを願った光。
そのすべてが。
安倍天明、ただ一人の身体へ降り注いでいた。
「ぐっ……!」
両腕が震える。
指先から血が滲む。
天に浮かぶ日輪。
地に描かれた巨大な五芒星。
天明は片膝をつきながら。
二つの術式を、同時に支えていた。
「まだや……」
額から流れた血が、頬を伝う。
「ここまで来て……」
「手ぇ離せるかいな……!」
祈りとは。
ただ優しいだけの力ではない。
生きたい。
助けたい。
帰ってきてほしい。
一人一人の人生が込められた願いは。
あまりにも重かった。
日本中の祈りが。
天明の魂を押し潰そうとしていた。
日輪に亀裂が走る。
五芒星の光が明滅する。
「晴明よ!」
徐福の笑い声が響いた。
「貴様一人では支えられぬ!」
「その術は永遠に完成せぬわ!」
黒い地脈が裂ける。
そこから。
無数の影が這い出した。
鬼。
獣。
骸骨。
名すら持たぬ魑魅魍魎。
十。
二十。
数十体。
十六氏族の守りをすり抜け。
動くことのできない天明へ殺到する。
天明は印を解けない。
「これは……」
引きつった笑みを浮かべる。
「さすがに、まずいなぁ……」
鋭い爪が。
天明の首へ迫る。
その時だった。
霧に包まれた森の奥から。
低い声が響いた。
「ノウマク」
魑魅魍魎の動きが止まる。
「サンマンダ」
熊野の大地が震えた。
「バザラダン」
霧の中に。
一人の男の影が浮かぶ。
「センダ」
一歩。
また一歩。
擦り切れた黒い袈裟が、風に揺れる。
その下には白い着物。
長い年月を歩き続けた、傷だらけの足。
伸びきった黒髪は。
無造作に後ろで結ばれていた。
「マカロシャダ」
男の手には。
一本の錫杖。
「ソワタヤ」
魑魅魍魎が悲鳴を上げる。
「ウンタラタ」
錫杖が掲げられた。
「カンマン!」
地面へ突き立てられる。
轟音。
白金の光が、森から戦場全体へ広がった。
天明へ襲いかかっていた魑魅魍魎が。
一瞬にして吹き飛ばされる。
黒い影は光の中で崩れ。
灰すら残さず消え去った。
天明の目が。
ゆっくりと開く。
その声を知っていた。
千年前の記憶が蘇る。
星空。
燃える都。
寺院の奥で交わした密約。
ともに術式を組み。
千年先の未来を待つと決めた、一人の僧。
「この声……」
天明が呟く。
「まさか……」
男が霧の中から現れた。
鋭い眼光。
修羅のような気配。
しかし。
その魂には、どこまでも静かな悟りが宿っている。
空海。
男は天明を見た。
「待たせたな」
僅かに口元を緩める。
「晴明」
天明は震える腕で印を保ちながら。
呆れたように笑った。
「ほんまやで」
「ここまで千年」
「待ったわ」
そして。
その名を呼ぶ。
「空海」
空海は熊野の空を見上げた。
十六氏族がつないだ祈り。
車折千代が舞によって束ねた光。
オシラサマが運んだ、名もなき人々の願い。
「祈りは集まった」
次に。
静かに大地へ目を落とす。
「全国の地脈も」
「すでに、この熊野へ結んである」
空海の足元から。
白い光が広がった。
高野山。
四国。
京都。
奈良。
出雲。
飛騨。
諏訪。
日本中を巡る地脈が。
神崎神社跡へ収束していく。
「これで」
空海は天明の背後へ立った。
「天地の術は完成する」
二人は。
背中合わせになった。
天は、天明。
地は、空海。
星を読み。
人々の祈りを天へ導く陰陽師。
大地を巡り。
日本全国の地脈を一つへ結んだ僧侶。
祈りを天へ上げる者と。
祈りを地へ結ぶ者。
陰陽道と真言密教。
天と地。
日と月。
千年の時を越え。
二つに分かれていた術が。
ようやく、一つの輪を描き始めた。
「ワシが天か」
天明は頭上の日輪を見上げる。
「そら、えらい重いはずやわ」
空海は錫杖を深く大地へ突き立てた。
「天の祈りは、お前が支えろ」
足元の地脈が脈動する。
「地は、私が鎮める」
天明は苦しげに笑った。
「相変わらず」
「おいしいところ持っていくなぁ」
「適材適所だ」
「千年前から、そればっかりやな」
二人が同時に手印を結ぶ。
天の日輪が回転し。
地の五芒星が強い光を取り戻した。
その光景を見た徐福の顔から。
完全に余裕が消えた。
「止めろ……」
背後の黒龍がざわめく。
「止めろ!」
漆黒の衣を振り乱し。
徐福が叫ぶ。
「それだけは完成させてはならぬ!」
黒龍が巨大な口を開く。
「ワシの黒龍が止まれば!」
「日本は傾くぞ!」
「この国を二千年間!」
「ワシが守ってきたのだ!」
誰も答えない。
徐福の言葉だけが。
虚しく戦場へ響く。
「赤鬼!」
徐福が叫んだ。
「奴らを殺せ!」
「早く術を解除せよ!」
「今すぐだ!」
両剣薙刀が。
低く鳴った。
赤鬼。
二千年間。
徐福の命令に従い続けてきた武人。
赤い仮面の奥で。
その瞳が、背中合わせの二人を見つめていた。
天と地。
陰と陽。
二つの術が。
一つの輪を作ろうとしている。
その姿に。
遠い記憶が重なった。
朱童。
白夜。
幼い二人の鬼。
背中合わせになり。
一人は天へ。
一人は地へ。
命を燃やしながら。
黒龍を縛り上げていた。
『武振熊』
二人の声が聞こえる。
『少しだけ』
『時間をください』
あの日。
自分は。
傷だらけの身体で、二人の前に立った。
黒龍の爪を受け。
骨を砕かれ。
血を吐きながら。
それでも。
双子の術を守り続けた。
守れなかった。
最後まで。
二人を守り抜くことができなかった。
だから。
二千年間。
その後悔を抱えてきた。
赤鬼の身体が動く。
両剣薙刀を構え。
空海と天明へ向かって走る。
徐福が笑った。
「そうだ!」
「殺せ!」
だが。
赤鬼は二人の前で止まった。
そして。
反転した。
両剣薙刀が円を描く。
襲いかかってきた百鬼夜行を。
一撃で薙ぎ払った。
「何をしておる!」
徐福が絶叫する。
赤鬼は。
空海と天明を守るように立つ。
黒龍の呪いが。
その身体を内側から引き裂き始めた。
骨が軋む。
血が噴き出す。
赤い仮面に亀裂が走る。
それでも。
両剣薙刀を握る手は離さなかった。
「今度こそ」
二千年間。
命令以外の言葉を、ほとんど発しなかった男が。
自らの意志で告げる。
「守る」
徐福の顔が歪む。
「裏切るか!」
「赤鬼よ!」
赤い仮面が。
完全に砕け落ちた。
その下から現れたのは。
怪物ではない。
疲れ切った。
一人の武人の顔。
男は徐福を見据える。
「我は」
両剣薙刀を構えた。
「赤鬼ではない」
二千年間。
奪われていた名を。
自らの魂で取り戻す。
「我が名は」
黒龍の呪いに抗い。
古代の英雄は。
再び、守るべき術の前へ立った。
「武振熊」
「武振熊命だ」




