第七話 大滝の記憶
熊野。
神崎神社跡から、さらに山奥へ入った場所。
そこに。
一つの大滝があった。
轟々と流れ落ちる水。
巨大な岩壁。
白い飛沫が霧となり。
周囲の森を、薄く覆っている。
遠くでは。
今も戦いの音が響いていた。
雷鳴。
剣戟。
妖の咆哮。
それでも。
この滝の周囲だけは。
まるで時間から切り離されたように、静かだった。
水辺に。
一人の女性が立っている。
籠真名美。
彼女は靴を脱ぎ。
冷たい水へ足を浸していた。
その少し後ろ。
岩に腰を下ろしているのは、安倍天明。
「天明さん」
真名美が振り返る。
「さぼっていて、いいんですか?」
「みんな、戦っているのに……」
天明は大きく手を振った。
「ちゃうで」
「ワシは真名美ちゃんが心配で、ついてきただけやがな」
胸を張る。
「決して」
「鬼やら妖やら豪傑やらが怖いわけとちゃうで」
真名美の顔が明るくなった。
「えーっ!」
「ありがとうございます!」
「ほんま、純粋な子やなぁ……」
天明は小さく呟く。
「まあ」
「ワシが抜けた穴は大きいからな」
「今頃、十六氏族もヒイヒイ言うとるかもしれんけど」
真名美は真剣に頷いた。
「そうですよね」
「天明さん、とても強いですもんね」
「……なんか、胸が痛なってきたわ」
天明は咳払いをする。
「それはさておき」
滝を見上げた。
「なんで、ここへ来たん?」
真名美は流れ落ちる水へ向き直った。
「呼ばれたんです」
「この滝に」
天明の糸目が、僅かに開く。
「滝に?」
「はい」
真名美は両手を水へ沈めた。
「今から」
「この滝と話します」
「……ほんまに会話形式なんや」
真名美は目を閉じた。
水音が変わる。
流れ落ちるだけだった大滝が。
何かを伝えようとするように、低く震え始めた。
真名美の長い髪が。
風もないのに揺れる。
「うん」
「うんうん……」
天明は黙って見ている。
「なるほど」
「そうだったんだ……」
「ふむふむ」
真名美の表情が。
次第に険しくなる。
「それで……」
「そのあとに……」
「えっ」
「そんな昔から……?」
天明は岩へ寝転びかけた。
「まだ続くん?」
真名美は水から手を離した。
ゆっくりと振り返る。
「分かりました」
「おっ」
「ほな簡潔に頼むで」
真名美は大きく息を吸った。
「すべての始まりは、天武天皇の時代です」
「長なりそうやな」
天武天皇。
日本という国の形を整え。
最初の歴史書を編ませた天皇。
だが。
表の歴史には残されていない。
もう一つの顔があった。
天武天皇は。
星を読み。
地脈を知り。
陰と陽の巡りを極めた者だった。
そして。
日本の歴史の裏側に潜む徐福の存在にも気づいていた。
だが。
すでに徐福の勢力は。
朝廷。
豪族。
祭祀。
記録を作る者たちの中にまで入り込んでいた。
正面から討てば。
国そのものが割れる。
真実を歴史書へ記せば。
記録を書き換えられ。
真実を知る者たちが殺される。
だから天武天皇は。
書物ではなく。
人の中へ記録を残した。
陰陽寮を作り。
星を読む者たちへ、知識と術を継承した。
やがて。
その記憶は。
稀代の陰陽師。
安倍晴明へと渡る。
魂の転生ではない。
人格の復活でもない。
術。
知識。
記録。
そして。
果たせなかった使命。
すべてを、次代の継承者へ残す禁術。
安倍家禁忌秘伝。
記憶継承術。
天武天皇は星を読み。
遥か未来を見た。
千年以上の時を越え。
三種の神器を宿す、三人の器が同じ時代に現れる。
その時こそ。
黒龍を再び封じる機会。
だから。
記憶は転生し続けた。
天武天皇から。
陰陽寮へ。
安倍晴明へ。
そして。
安倍天明へ。
「……ということです」
真名美がようやく一度、言葉を切った。
天明は黙っていた。
頭の奥で。
知らないはずの風景が浮かぶ。
古い都。
星空の下に広げられた術式。
玉座に座る男。
その男が。
静かにこちらを見ていた。
『記録を、書物へ残すな』
『人の中へ残せ』
『星が重なる時を待て』
天明は、自分の胸へ手を当てた。
「天武天皇の記憶まで」
「ワシの中にあるいうことか」
「はい」
真名美は頷く。
「でも」
「記憶は完全ではありません」
「徐福に悟られないよう、断片に分けられています」
両面宿儺。
朱童と白夜。
後世。
怪物として書き残された、鬼神の双子。
彼らが人々を救ったことも。
黒龍と戦ったことも。
すべて塗り替えられた。
武振熊が、両面宿儺を討ち取ったという記録。
それすら。
徐福が作り上げた偽り。
黒龍封印の真実は。
歴史のどこにも残されていない。
だが。
水は覚えていた。
血が流れたことを。
祈りが捧げられたことを。
二人の小さな術師が。
命を懸けて黒龍を封じたことを。
「この滝には」
真名美は水面を見つめる。
「朱童と白夜の祈りが残っています」
水面が揺れた。
二人の小さな影が映る。
背中合わせ。
一人は天へ。
一人は地へ。
手を伸ばす。
陰と陽。
日と月。
二つの術が輪となり。
巨大な黒龍を縛り上げる。
「ふたりが背を向けてですね」
真名美は身振りを交え始めた。
「一人が天の術を」
「もう一人が地の術を受け持って」
「それが、こう」
「大きな輪になって」
両腕で円を作る。
「黒龍を、ぐるぐるーっと縛りつけるんです」
「説明が急にかわいなったな」
「でも」
真名美の表情が真剣になる。
「ものすごい霊力と呪力が必要です」
「双子の呪力は」
「徐福を、圧倒的に超えていました」
「鬼神の双子ですからねぇ……」
真名美は天明を見る。
「天明さん」
「できますか?」
天明はしばらく黙っていた。
滝を見上げる。
水音。
戦場から届く轟音。
自分の中で目覚めた、千年の記憶。
やがて。
頭を掻いた。
「話、長っ!」
「ええっ!?」
「途中で三回くらい日ぃ暮れるか思たわ」
「だ、大事なお話だったので……」
「せやけど」
天明は立ち上がる。
扇を開く。
その瞳の奥で。
金色の五芒星が静かに回転した。
「分かったで」
「最後の切り札が」
真名美が息を呑む。
「では」
「できますか?」
天明は笑った。
「できますか、やて?」
「ワシ以外に」
扇で自分の胸を指す。
「できるもん、おらんやろ」
滝の水が。
その言葉へ応えるように、強く轟いた。
天明は戦場の方向へ歩き出す。
「さあ」
「急いで戻るで」
「はい!」
真名美も靴を履き、後を追う。
千年を越えて残された記憶。
水が運んだ、双子の祈り。
それは今。
一人の陰陽師へ。
確かに受け継がれた。




