第一話 帰還
熊野。
深い山々に抱かれたその場所に。
かつて、一つの神社があった。
神崎神社。
八尺瓊勾玉を祀り。
日本中を巡る地脈から、祈りと記憶を受け取っていた社。
二十五年前。
そこは炎に包まれた。
巫女たちは殺され。
社殿は焼け落ち。
十三歳の少女は、すべてを失った。
少女の名は。
神崎マリア。
そして今。
焼け落ちた鳥居の跡に、一人の男が立っていた。
漆黒の衣。
長い黒髪。
穏やかに見えるその顔には、二千年という時間が刻まれている。
徐福。
男は崩れた石段へ手を伸ばした。
指先が、黒く変色した石へ触れる。
「懐かしい」
風が止まった。
森の鳥たちが、一斉に鳴くことをやめる。
徐福は静かに目を閉じた。
「ここから、すべてが始まった」
二千年前。
黒龍と契約した場所。
二十五年前。
八尺瓊勾玉を奪い損ねた場所。
そして。
自らを拒んだ少女が生まれた場所。
徐福はゆっくりと目を開いた。
「ならば」
「ここで、すべてを終わらせよう」
手のひらから、黒い脈が広がった。
大地が鳴る。
石畳の亀裂から黒い光が溢れ、熊野の山々を巡る地脈へ侵食していく。
木々が軋み。
川が濁り。
夜空を覆う雲が渦を巻いた。
霧の中。
巨大な影が動く。
両剣薙刀を携えた赤鬼。
武振熊。
その隣。
青い面をつけ、弓を背負う青鬼。
那須与一。
二人は何も語らず、徐福の背後へ並んだ。
続いて。
破れた狩衣をまとい、口元に歪んだ笑みを浮かべる蘆屋道満。
巨大な薙刀を肩へ担ぐ武蔵坊弁慶。
浅葱色の羽織を揺らし、静かに刀へ手を添える沖田総司。
彼らは歩いてきたのではない。
山の陰から。
地の底から。
忘れられた記憶の隙間から。
呼び戻された。
そして。
夜空を裂いて、鵺が吠えた。
岩壁を砕き、土蜘蛛が這い出す。
川底から牛鬼が姿を現す。
山肌を割って、大百足が身をくねらせる。
白骨の指が地面を突き破り。
やがて。
森よりも巨大ながしゃどくろが、ゆっくりと立ち上がった。
終わることのできなかった者たち。
名を奪われた者。
敗れた者。
恨みを残した者。
歴史から消された者。
二千年の呪いに導かれ。
すべての始まりの地へ。
帰ってきた。
徐福は軍勢を見渡した。
その表情に、喜びはなかった。
悲しみもなかった。
ただ。
長い旅の終着点を見つめる者の、静かな執着だけがあった。
「始めよう」
その言葉とともに。
徐福の百鬼夜行が完成した。
一方。
熊野へ続く国道を、十六氏族の車列が進んでいた。
先頭車両には神崎蓮。
月乃瀬澄華。
天城煌。
因幡剛。
安倍天明。
そして。
椿玄道が乗っていた。
「……また同じ場所や」
天明が窓の外を見て呟く。
先ほど通り過ぎたはずの、朽ちた道路標識。
同じ杉の木。
同じ崩れた石垣。
車列は一時間以上進んでいる。
それでも景色は変わらない。
蓮の右目が青く発光した。
『空間座標に異常を検出』
『現在位置の特定――失敗』
『地形情報と観測結果が一致しません』
蓮は眉を寄せた。
「NOESISでも分からない」
『神崎神社跡への経路を再計算』
一秒。
二秒。
三秒。
これまで、あらゆる状況へ答えを示してきた声が。
初めて、明確な否定を告げた。
『到達可能な経路――存在しません』
車列が止まった。
通信機器は沈黙し。
方位磁針は回転を続ける。
山道は霧に呑まれ。
空と地面の境界さえ曖昧になっていた。
その時。
後部座席の椿玄道が、ゆっくりと扉を開けた。
巨体が車外へ降りる。
手には一本の錫杖。
「道がないのではない」
低い声が、霧の中へ響いた。
「閉ざされておるだけじゃ」
玄道は車列の先頭へ立った。
その背後には。
神崎家。
月乃瀬家。
天城家。
因幡家。
安倍家。
そして、日本各地から集った氏族たちがいる。
玄道は錫杖を大地へ突き立てた。
澄んだ金属音が鳴る。
一度。
熊野の山が応えた。
二度。
地の底で、何かが目を覚ました。
「我が祖」
「猿田彦大神」
玄道の足元へ、淡い光が集まっていく。
「天と地の狭間に立ち」
「迷える者を導きし神よ」
錫杖の環が激しく震えた。
「今一度」
「人の歩む道を示されよ」
玄道が錫杖を打ち下ろす。
轟音。
大地から光が走った。
一本ではない。
京都から。
奈良から。
出雲から。
飛騨から。
諏訪から。
丹後から。
熊野から。
十六の土地より、十六本の光の道が伸びていく。
白鹿を伴い、春日鎮臣が山を下る。
車折千代は笹の葉を手に、祈るように歩く。
村雨響香は二刀を差し、剛の隣へ並ぶ。
賀茂雷玄は陰陽師たちを率い、雷雲の下を進む。
諏訪洸牙は山岳救助隊とともに崖を越える。
玉置岩戸は傷ついた地脈へ手を当て、大地の震えを鎮める。
八幡宗介の指示によって、車両と物資と通信網が動き始める。
籠真名美は川へ指を浸し、水に残された古い記憶を辿っていた。
神々の軍勢ではない。
神の命令によって集められた者たちでもない。
会社を動かしてきた者。
山で命を救ってきた者。
刀を打ってきた者。
舞を受け継いできた者。
祈りを守り。
土地を守り。
人の暮らしの中で生きてきた者たち。
その歩みが。
今。
一つの道へ重なっていく。
やがて。
十六本の光は、熊野の山中で一つになった。
霧が割れる。
その先に。
焼け落ちた鳥居が見えた。
玄道は蓮たちへ振り返る。
「ここより先は」
「神の決めた道ではない」
誰も言葉を挟まなかった。
「正しい未来へ続く保証もない」
玄道は錫杖を掲げた。
「それでも進むというのなら」
「この椿玄道が、熊野への道を開こう」
蓮は前を見た。
青い瞳の奥に、迷いは残っている。
未来は見えない。
勝利も約束されていない。
それでも。
「正しいかどうかは、まだ分かりません」
蓮は答えた。
「でも」
「それを徐福に決めさせるつもりはない」
玄道は何も言わなかった。
ただ。
僅かに口元を緩めた。
光の道を抜けた先。
神崎神社跡。
焼け焦げた石畳を挟み。
二つの軍勢が向かい合った。
こちらには、十六氏族。
向こうには、百鬼夜行。
祈りを継ぐ者たちと。
呪いに囚われた者たち。
蓮は、崩れた鳥居を見上げた。
その瞬間。
視界が揺れる。
炎。
悲鳴。
崩れ落ちる社殿。
十三歳の少女が、勾玉を抱いて走っている。
母。
神崎マリア。
『地点照合完了』
『旧・神崎神社跡』
『神崎マリア――出生地』
初めて訪れた場所だった。
それなのに。
蓮は知っていた。
燃える木の匂いも。
冷たい石畳の感触も。
ここで失われた、母のすべても。
「ここが……」
蓮の声が震えた。
「母さんの、生まれた場所」
百鬼夜行の中央。
徐福が静かに答えた。
「そうだ」
男は両腕を広げた。
「お前の母が生まれ」
「すべてを失った場所だ」
その視線が、蓮の青く光る右目へ向けられる。
「そして」
「私が八尺瓊勾玉を、手に入れ損ねた場所でもある」
玄道が最後の一歩を踏み出した。
錫杖が石畳を打つ。
澄んだ音が。
祈りと呪いの間へ響いた。
「道は開いた」
玄道は告げる。
「あとは」
「おぬしたちが選べ」
蓮。
澄華。
煌。
剛。
天明。
五人。
祈りを継ぐ十六の氏族と。
呪いに囚われた百鬼夜行は。
すべての始まりの地で。
ついに。
向かい合った。




