第九話 不在の当主
紀伊山地。
深い山々の、そのさらに奥。
神崎蓮たち五人は。
古い石段を登っていた。
両側には杉の巨木が立ち並び。
昼だというのに。
森の中は、夜のように暗い。
「まだ着かへんの……?」
安倍天明が、杖代わりの枝へ体重を預ける。
「陰陽師って、体力ねえんだな」
因幡剛が笑った。
「僕は頭脳労働専門やねん」
「将門の千騎、一人で止めてただろ」
「命削る仕事と山登りは別料金や」
その前を。
天城煌は無言で登っていく。
月乃瀬澄華も息一つ乱していない。
蓮は右目を青く輝かせ。
山中を流れる霊脈を追っていた。
『複数の霊的経路を検出』
『推定構築年代――千年以上前』
『経路は全国各地へ分岐』
「道がある」
蓮が足を止めた。
剛が周囲を見回す。
「道?」
「この石段じゃない」
「大地の下に、祈りを運ぶための道がある」
天明の糸目が。
僅かに開いた。
「よう見つけたな、蓮くん」
「これはたぶん」
「立里家が、ずっと守ってきた道や」
石段の先に。
小さな社が現れた。
十六氏族の一角。
荒神の系譜を継ぎ。
真言と祈りの道を守る立里家。
だが。
社の前に人影はなかった。
「誰もいねえぞ」
剛が声を上げた、その時。
「お待ちしておりました」
背後から声がした。
五人が一斉に振り返る。
そこに立っていたのは。
白髪の老人だった。
質素な墨色の法衣。
曲がった背。
長年使い込まれた竹箒。
霊力も。
殺気も。
ほとんど感じられない。
ただの寺守にしか見えなかった。
「立里家の当主ですか」
澄華が尋ねる。
老人は穏やかに首を振った。
「いいえ」
「私は、この場所を預かる者」
「当主代理にすぎません」
この老人が。
立里家当主なのではない。
主の留守を守り続けてきた。
一人の門守だった。
「当主は、どこに?」
煌が問う。
老人は社の扉を開いた。
「旅に出ておられます」
「いつ戻る」
「分かりません」
「どこへ行ったんだ?」
「それも、分かりません」
剛が露骨に眉を寄せる。
「いや、当主代理なのに何も知らねえのかよ」
「ほっほっほ」
老人は楽しそうに笑った。
「当主は昔から」
「行き先を告げて旅立つ方ではございませんので」
社の内部には。
豪華な仏像も。
巨大な祭壇もなかった。
あるのは。
壁一面へ張られた、日本地図。
その地図には無数の赤い糸が走っていた。
寺。
神社。
霊場。
山。
滝。
海。
そして。
地図にも名が記されていない、小さな土地。
糸は全国へ広がり。
複雑に交差している。
「これは……」
澄華の白銀の瞳が輝く。
そこに刻まれていたのは。
術式ではない。
数え切れないほどの祈りだった。
「当主は、日本中を歩いておられます」
老人が言う。
「大きな社だけではありません」
「道端の祠」
「忘れられた石仏」
「名もない墓」
「誰にも語られなくなった伝承」
「そうした場所を、一つずつ訪ねておられるのです」
蓮が地図へ近づく。
赤い糸の一部が。
黒く変色していた。
途中で断ち切られた道。
逆方向へ流れ始めた祈り。
『霊的経路に異常を検出』
『複数地点で負の感情が混入』
『人為的改変の可能性――九十九・二パーセント』
「徐福だ」
蓮が呟く。
老人は答えなかった。
だが。
その沈黙が、肯定だった。
「徐福は祈りの道を利用して」
「日本中の負の感情を集めている」
「せやから当主は」
天明が地図を見つめる。
「切られた道を、もう一度つなぎ直してるんやな」
その瞬間。
天明の胸の奥で。
何かが脈打った。
遠い昔。
土の道を歩く、一人の男。
擦り切れた草履。
雨に濡れた黒い衣。
手には数珠。
男は振り返らない。
ただ。
祈りの声を辿るように。
日本中を歩き続けていた。
「……誰や」
天明が胸を押さえる。
「今の記憶は」
老人は天明を見つめた。
その目に。
ほんの僅かな懐かしさが宿る。
しかし。
何も語らなかった。
「当主に会えなければ」
煌が静かに言う。
「我々は何のために、ここへ来た」
「会えないことを知るためです」
老人は答えた。
「十六氏族の当主が、皆」
「自らの家で待っているとは限りません」
「人を待つ者もいれば」
「人を導く者もいる」
「そして」
「人々のもとへ、自ら歩いていく者もいる」
老人は地図へ手を伸ばした。
指先が。
黒く染まった紀伊半島をなぞる。
「当主は申しておりました」
「神崎の勾玉が、再び目を覚ました時」
「千年をかけて築いた道もまた、目覚め始めると」
蓮の胸元で。
八尺瓊勾玉が淡く輝いた。
赤い糸が。
それに応える。
一本。
また一本。
消えかけていた祈りの道へ。
微かな光が戻り始めた。
「当主は」
蓮が老人を見る。
「僕たちのことを知っているんですか」
「さて」
老人は微笑んだ。
「知っておられるのか」
「待っておられるのか」
「あるいは」
「皆様がここへ来るより先に」
「すでに、近くを通り過ぎておられたのかもしれません」
剛が頭を掻く。
「なんだよ、それ」
「結局、会えねえのか」
「今は」
老人は、はっきりと答えた。
「ですが」
「皆様が本当に、あの方の力を必要とする時」
「きっと会うことになるでしょう」
「約束してるのか?」
「いいえ」
老人は首を振る。
「あの方は」
「約束があるから来るのではありません」
「祈りがある場所へ、来るのです」
社の外で。
風が吹いた。
壁の地図に結ばれた赤い糸が。
一斉に揺れる。
それはまるで。
日本中から届く声が。
一つの場所を呼んでいるようだった。
老人は五人へ。
一枚の古い紙を差し出した。
描かれていたのは。
紀伊半島の山々と。
大地の下を走る、巨大な霊脈。
その中心には。
玉置の名が記されていた。
「次は、玉置家をお訪ねください」
「玉置岩戸様ならば」
「地の底を流れるものを」
「皆様の目に見える形で示してくださるでしょう」
天明が紙を受け取る。
「立里家当主のことも、知ってはるん?」
「古い友人だと聞いております」
老人は笑った。
「もっとも」
「岩戸様は、会えば必ず説教をすると申しておられましたが」
「帰ってこない放浪癖のある当主か」
剛が笑う。
「そりゃ怒られるわ」
五人は社を後にした。
当主には会えなかった。
その名も。
姿も。
力も。
何一つ、知ることはできなかった。
それでも。
蓮は感じていた。
不在なのではない。
この国の、どこかにいる。
人々が忘れてしまった祈りを拾い。
徐福によって断ち切られた道を。
一歩ずつ。
つなぎ直している。
老人は。
五人の背中が見えなくなるまで。
石段の上で静かに見送っていた。
やがて。
誰もいなくなった社へ戻り。
地図の前で手を合わせる。
「皆様が来られました」
「長い旅も」
「ようやく終わりへ近づいております」
返事はない。
ただ。
遠い山のどこかで。
鈴の音が。
一度だけ響いた。




