第七話 盤上の宇宙
最後の一人だった。
⸻
月乃瀬神社。
将棋奨励会。
三十人いた参加者は既に帰路についていた。
⸻
「いやぁ」
初老の男性が笑う。
「白河先生も大変ですな」
⸻
盤面を覗き込む。
⸻
「初心者というのは困る」
⸻
苦笑する。
⸻
「定跡も知らない」
「常識も知らない」
「だから何を指すかわからない」
⸻
周囲も頷く。
⸻
「神崎くんだったかな?」
「なかなか頑張ったよ」
⸻
白河智史が微笑む。
⸻
銀縁眼鏡の奥の瞳は穏やかだった。
⸻
「君は素質がある」
⸻
駒を置く。
⸻
「今日はここまでにして」
⸻
また一手。
⸻
「あとでマンツーマンで指導してあげよう」
⸻
参加者達が羨ましそうに笑う。
⸻
「いいなぁ」
「三冠直々の指導か」
⸻
剛も立ち上がる。
⸻
「あーあ!!」
⸻
頭を掻く。
⸻
「名人に勝てると思ったんだけどな!」
⸻
豪快に笑った。
⸻
「俺は先帰るぜ!」
⸻
蓮を見る。
⸻
「またな!」
⸻
「うん」
⸻
剛が去る。
⸻
境内が静かになる。
⸻
残ったのは。
⸻
白河智史。
神崎蓮。
月乃瀬澄華。
⸻
三人だけだった。
⸻
沈黙。
⸻
蓮が口を開く。
⸻
「白河先生」
⸻
白河が顔を上げる。
⸻
「次は本気でお願いします」
⸻
空気が変わった。
⸻
白河の眉が僅かに動く。
⸻
「……ほう?」
⸻
銀縁眼鏡を押し上げる。
⸻
「君には本格的な指導が必要なようだ」
⸻
静かに笑った。
⸻
「飛車角落ちは無しにしよう」
⸻
駒を並べる。
⸻
「将棋というものをよく勉強するといい」
⸻
対局開始。
⸻
◆
⸻
一手目。
⸻
二手目。
⸻
三手目。
⸻
白河は気付く。
⸻
(速い)
⸻
蓮は考えていない。
⸻
一秒。
⸻
いや。
⸻
〇・五秒。
⸻
指している。
⸻
まるで。
⸻
答えを知っているみたいに。
⸻
◆
⸻
月乃瀬澄華の瞳が白銀へ変わる。
⸻
月花鏡読心術。
⸻
発動。
⸻
蓮を見る。
⸻
その瞬間。
⸻
澄華の呼吸が止まった。
⸻
(なに……)
⸻
将棋盤が見える。
⸻
違う。
⸻
盤面じゃない。
⸻
未来だった。
⸻
一つではない。
⸻
百。
⸻
千。
⸻
一万。
⸻
十万。
⸻
無数。
⸻
無限。
⸻
盤面の可能性が鏡のように重なっている。
⸻
(神崎くん……)
⸻
(あなた一体……)
⸻
(何を見ているの……)
⸻
◆
⸻
白河が指す。
⸻
蓮が指す。
⸻
白河が指す。
⸻
蓮が指す。
⸻
速度が逆転する。
⸻
白河が長考する。
⸻
蓮は一秒。
⸻
また一秒。
⸻
さらに一秒。
⸻
白河の額に汗が浮かぶ。
⸻
(ありえない)
⸻
手が読めない。
⸻
初心者の将棋ではない。
⸻
天才の将棋でもない。
⸻
未知だった。
⸻
(なんだ……これは)
⸻
◆
⸻
NOESIS起動。
⸻
対象解析。
⸻
将棋。
⸻
戦略構造解析。
⸻
棋譜照合。
⸻
未来局面展開。
⸻
最適解算出。
⸻
(なるほど)
⸻
蓮は思う。
⸻
(将棋とはこういうゲームなのか)
⸻
白河が震えた。
⸻
名人。
⸻
竜王。
⸻
王位。
⸻
歴代の天才達。
⸻
その誰とも違う。
⸻
目の前の少年は。
⸻
将棋をしていない。
⸻
世界を観測している。
⸻
◆
⸻
「神崎くん」
⸻
白河が言う。
⸻
「君のような棋士は初めて見たよ」
⸻
笑う。
⸻
だが。
⸻
笑えていない。
⸻
「ただ」
⸻
駒を置く。
⸻
「ビギナーズラックで僕に勝つことは出来ない」
⸻
蓮は首を傾げた。
⸻
「そうなんですか?」
⸻
一手。
⸻
置く。
⸻
白河の顔色が変わる。
⸻
静寂。
⸻
長考。
⸻
三分。
⸻
五分。
⸻
十分。
⸻
蓮は待つ。
⸻
「白河先生」
⸻
静かな声。
⸻
「さっきから待ち時間が長くなってます」
⸻
白河が息を呑む。
⸻
初めてだった。
⸻
十七年間。
⸻
人生を将棋へ捧げた。
⸻
負けたこともある。
⸻
だが。
⸻
理解できない相手はいなかった。
⸻
◆
⸻
蓮が駒を持つ。
⸻
静かに。
⸻
置く。
⸻
「この一手」
⸻
盤面が止まる。
⸻
「将棋の世界では何て言うんですか?」
⸻
白河の瞳が揺れる。
⸻
蓮が続ける。
⸻
「詰み」
⸻
沈黙。
⸻
風鈴が鳴る。
⸻
白河が盤面を見る。
⸻
読む。
⸻
読む。
⸻
読む。
⸻
読む。
⸻
何十手先まで。
⸻
何度。
⸻
何度。
⸻
何度。
⸻
確認しても。
⸻
結果は変わらない。
⸻
負けていた。
⸻
完全に。
⸻
◆
⸻
銀縁眼鏡が僅かに下がる。
⸻
汗が落ちる。
⸻
そして。
⸻
長い沈黙の後。
⸻
白河智史は言った。
⸻
「……参りました」
⸻
月乃瀬澄華が息を呑む。
⸻
今世紀最大の天才棋士。
⸻
将棋三冠。
⸻
白河智史。
⸻
人生で初めて。
⸻
完全敗北を認めた瞬間だった。
⸻
◆
⸻
帰り道。
⸻
剛が待っていた。
⸻
「おー!」
⸻
手を振る。
⸻
「どうだったよ!」
⸻
蓮は少し考える。
⸻
そして答えた。
⸻
「ああ」
⸻
夜風が吹く。
⸻
「名人は大したもんだった」
⸻
◆
⸻
後日。
⸻
将棋界を震撼させる異変が起きる。
⸻
白河智史。
⸻
公式戦十連敗。
⸻
誰も理由を知らない。
⸻
ただ一つ。
⸻
確かなことがある。
⸻
盤上の宇宙は。
⸻
あの日。
⸻
神崎蓮という観測者によって。
⸻
書き換えられた。
⸻




