第六話 月花鏡は内側を見る
六月。
雨上がりの風が、月乃瀬神社の石畳を静かに撫でていた。
鳥居の向こうでは、紫陽花が咲いている。
世界は穏やかだった。
少なくとも――
神崎蓮の目にはそう映っていた。
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「神崎くん、将棋は好き?」
昼休み。
校内に貼られた一枚のポスターを見上げていると、不意に声がかかった。
月乃瀬澄華だった。
制服姿の彼女は、いつものように穏やかに微笑んでいる。
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【月乃瀬神社 将棋奨励会】
特別講師
白河智史 三冠
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「将棋?」
蓮は首を傾げる。
「ルールも知らない」
「なら丁度いいかもしれないね」
澄華は楽しそうに言った。
「初心者歓迎だから」
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その隣で。
因幡剛がポスターを覗き込む。
「将棋かぁ」
腕を組みながら唸る。
「親父に何回か教わったことあるぜ」
「勝てたの?」
「一回もねぇ」
「そう」
「でも今回は違う」
剛は不敵に笑った。
「俺、こういう天才って奴に一回勝ってみたかったんだよな」
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その言葉を聞きながら。
蓮はポスターの写真を見る。
銀縁眼鏡。
七三分け。
端正な顔立ち。
高校三年生にして将棋三冠。
今世紀最大の天才棋士。
白河智史。
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(将棋か)
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その瞬間。
右目の奥で微かに何かが脈打った。
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◆
当日。
月乃瀬神社には三十人近い参加者が集まっていた。
老人。
会社員。
学生。
子供。
皆の目的は一つ。
白河智史を見ること。
そして。
可能ならば一局でも指すこと。
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「月乃瀬さん」
柔らかな声が響く。
「本日もよろしくお願いします」
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現れた白河智史は、
テレビで見るままの姿だった。
礼儀正しい。
物腰も柔らかい。
だが。
その奥にある。
絶対的な自負。
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自分は負けない。
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そう確信している者だけが持つ空気。
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「では始めましょう」
白河が微笑む。
「今日は三十面指しです」
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場内がどよめいた。
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飛車角落ち。
三十人同時。
それでも。
誰一人として勝てると思っていない。
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それが白河智史という存在だった。
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◆
対局開始。
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白河が歩く。
指す。
歩く。
指す。
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速い。
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あまりにも速い。
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一秒もかからない。
盤面を見る。
指す。
終わり。
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まるで。
既に全ての局面を知っているかのように。
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「参りました」
最初の脱落者が出る。
十分後。
二人目。
三人目。
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人数は減り続けた。
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「因幡くん」
白河が立ち止まる。
「やあ」
銀縁眼鏡を押し上げる。
「君は有名人だね」
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剛が笑う。
「悪い意味でな」
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「将棋は喧嘩とは違う」
白河は微笑む。
「しっかり学んでいきなさい」
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次の瞬間。
一手。
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剛の顔色が変わる。
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「げっ」
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白河はもう次へ歩いている。
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◆
そして。
神崎蓮の盤へ。
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白河は盤面を見る。
一瞬だけ。
眉が動く。
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初心者。
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配置。
思考。
駒運び。
全てが素人だった。
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「将棋は初めてかな?」
「うん」
蓮は答えた。
「今日覚えた」
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白河が笑う。
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「それは良かった」
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教師が生徒を見る目だった。
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「楽しんでいくといい」
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一手。
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白河は次の盤へ向かう。
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蓮は静かに駒を見る。
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(なるほど)
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右目が微かに熱を帯びる。
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(これが将棋)
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盤面。
駒。
価値。
交換。
配置。
流れ。
定跡。
戦術。
戦略。
思想。
歴史。
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情報が流れ込む。
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NOESIS起動。
対象解析開始。
将棋。
推定成立年代。
戦略構造。
勝率理論。
棋譜解析。
最適化開始。
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(面白いな)
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蓮は初めてそう思った。
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◆
その様子を。
月乃瀬澄華は遠くから見ていた。
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お茶を配りながら。
静かに。
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八咫鏡の感応。
月花鏡読心術。
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瞳が白銀に輝く。
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そして。
次の瞬間。
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澄華の手が止まった。
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(え……?)
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神崎蓮の心を読もうとして。
理解できなかった。
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思考ではない。
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情報だった。
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膨大。
無限。
濁流。
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盤面一つに対して。
数千。
数万。
数十万。
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未来が展開している。
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(何……これ……)
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冷たい汗が流れる。
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(神崎くん……)
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(将棋を覚えてるんじゃない)
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(解析してる)
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◆
三十分後。
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「参りました」
「参りました」
「参りました」
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脱落者が続く。
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三十人いた参加者は。
五人になっていた。
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「いやぁ」
初老の男性が笑う。
「さすが白河先生だ」
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「隙がまったくない」
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皆が頷く。
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それほどまでに。
白河智史は強かった。
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◆
「因幡くん」
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白河が立ち止まる。
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「君は思ったより粘るね」
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一手。
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静かに駒が置かれる。
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剛が盤面を見る。
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数秒。
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十秒。
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二十秒。
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そして。
豪快に笑った。
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「あーっ!!」
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頭を掻く。
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「そこかよ!!」
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「参った!!」
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白河は満足そうに頷く。
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「良い将棋だったよ」
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剛は立ち上がる。
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「大したもんだぜ」
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振り返る。
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「なぁ蓮?」
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神崎蓮は盤面を見ていた。
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白河智史も。
初めて足を止める。
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蓮の盤面だけが。
まだ終わっていない。
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静寂。
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「そうだな」
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蓮は言う。
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「名人というのは――」
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右目が微かに青く光る。
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「本当に大したものだ」
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その言葉を聞きながら。
月乃瀬澄華は震えていた。
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彼女だけが知っていた。
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神崎蓮が。
負け筋ではなく。
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勝ち筋を見ていることを。
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(まさか……)
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(神崎くん……)
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(あなた……本当に将棋初心者なの……?)
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神社の外で。
風鈴が鳴った。
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静かに。
盤上の戦争が始まろうとしていた。




