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NOESISーノエシスー  作者: 月乃瀬
第五章 十六氏族編
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第五話 山の神

断崖だった。


ほとんど垂直に切り立った岩壁が、雲の中まで続いている。


その下に。


神崎蓮と、一人の男が立っていた。


短い黒髪。


無精髭。


黒い山岳救助服。


腰にはロープと無数のカラビナ。


身長百八十五センチの巨体が、岩山を見上げている。


「ここを登るんですか」


「ああ」


男は、それだけ答えた。


名は、諏訪洸牙。


現役の山岳救助隊員。


そして。


十六氏族――諏訪家の当主だった。


洸牙はロープを確かめる。


「先に行く。俺の確保はするな」


「一人で?」


「山では、自分の命は自分で支える」


洸牙が岩へ手をかけた。


巨体が、静かに浮く。


速くはない。


だが、一切の迷いがなかった。


岩の僅かな窪み。


数センチの突起。


そこへ指をかけ、体重を移し、次の足場へ進んでいく。


蓮の右目が、青く光った。


『岩壁形状を解析』


『推奨登攀経路を表示』


『落下確率、二・八パーセント』


青い線が岩壁へ浮かび上がる。


手をかける位置。


足を置く場所。


重心を移す角度。


すべてが、蓮には見えていた。


蓮も登り始める。


洸牙より速い。


最短の経路を選び。


最小限の力で身体を持ち上げる。


やがて洸牙へ追いついた。


「右へ三十センチ。その上に安定した足場があります」


「そうか」


洸牙は右へ行かなかった。


反対側の、不安定に見える岩へ手を伸ばす。


「そちらは非効率です」


「分かっている」


「なら、なぜ」


「この先で右の岩が崩れる」


その直後。


蓮が示した足場へ、細い亀裂が走った。


岩が剥がれ、谷底へ落ちていく。


青い表示が乱れる。


『地質情報を再解析』


『経路を再計算』


洸牙は落ちていく岩を見つめもしなかった。


「山は数字どおりには残ってくれない」


二人はさらに登った。


中腹を越えた頃。


風が変わった。


穏やかだった空が急速に暗くなる。


遠くで雷鳴が響いた。


『気象変化を確認』


『山頂到達後の下山成功率、六十一・二パーセント』


『引き返す場合、九十七・九パーセント』


「天候が崩れます」


「ああ。下りるぞ」


洸牙は即座に答えた。


「ここまで来たのに?」


「山頂は逃げない」


洸牙はロープを張り直す。


「生きていれば、また登れる」


その時だった。


下方から、岩の砕ける音が響いた。


続いて。


「助けてくれ!」


誰かの叫び。


洸牙の表情が変わった。


迷いはなかった。


身体を反転させ、一気に降下する。


蓮もあとを追う。


数十メートル下。


一人の登山者が宙吊りになっていた。


右脚から血が流れている。


支点にしていた岩には亀裂が入り、今にも崩れそうだった。


『支点崩壊まで、推定四十七秒』


『二名同時救助の成功率、三十四・六パーセント』


『救助者一名を切り離した場合――』


「黙れ」


蓮は、初めてNOESISへそう命じた。


洸牙は自分のロープを登山者へ投げる。


だが、わずかに届かない。


亀裂が広がった。


『残り二十一秒』


「諏訪さん!」


「お前は上の支点を取れ!」


「この岩壁では間に合いません!」


「間に合わせろ!」


洸牙は躊躇なく身体を振った。


自らの安全圏を捨て。


登山者へ手を伸ばす。


指先が触れる。


だが。


届かない。


あと数センチ。


『救助成功率、十二・一パーセント』


蓮は岩を蹴った。


青い経路を外れ。


計算にはない方向へ身体を投げ出す。


洸牙のロープを掴み、全体重をかけて引いた。


洸牙の身体が、僅かに前へ出る。


その手が。


登山者の腕を掴んだ。


同時に岩が崩れた。


轟音。


三人の身体が宙へ投げ出される。


ロープが伸び切る。


支点が軋む。


蓮の両手へ、焼けるような痛みが走った。


「離すな!」


洸牙が叫ぶ。


「分かっています!」


蓮は歯を食いしばった。


解析も。


最適化も。


もう、何も見ていなかった。


ただ。


落ちるな。


生きてくれ。


そう願いながら、ロープを握り続けた。


やがて。


三人は岩棚へ引き上げられた。


負傷した登山者の命に別状はなかった。


雨の中。


洸牙は手際よく脚を固定し、救助要請を送る。


蓮は荒い息を整えながら尋ねた。


「成功率が低いと分かっていたのに、なぜ手を伸ばしたんですか」


洸牙は包帯を結ぶ。


「目の前にいたからだ」


「それだけですか」


「それで充分だ」


雷鳴が山を震わせた。


洸牙は、灰色の空を見上げる。


「昔、一人だけ救えなかった」


その声は。


雨音に消えそうなほど静かだった。


「吹雪の中で遭難した、十七歳の少年だった」


「…………」


「手を伸ばした。だが、届かなかった」


洸牙の大きな手が、僅かに握られる。


「俺は負けた」


「山にですか」


「自分にだ」


洸牙は否定しなかった。


「建御名方神も、戦いに敗れた神だ」


「敗れ、諏訪まで退き、この地に留まった」


「だが、負けたから終わったわけじゃない」


洸牙は負傷者を背負う。


「敗れたあとも」


「山を守り、人を守った」


蓮は黙って聞いていた。


「勝てなかった人間に、何が残りますか」


洸牙は蓮を見る。


「次に手を伸ばす役目が残る」


その言葉が。


蓮の胸へ深く落ちた。


母を救えなかった。


父の最期にも立ち会えなかった。


NOESISがあっても。


すべてを知ることはできず。


すべてを救うこともできない。


「神崎蓮」


洸牙が問う。


「お前は、負けたあとにも人を守れるか?」


蓮はすぐに答えられなかった。


洸牙は歩き始める。


山頂とは反対の方向へ。


救助を待つための避難小屋へ。


今日の登攀は失敗だった。


二人は山頂へ辿り着けなかった。


だが。


一人の命が、山を下りる。


洸牙は前を向いたまま言った。


「山では、神に祈る者も多い」


「あなたは祈らないんですか」


「祈る」


意外な答えだった。


「技術を磨く」


「装備を整える」


「天候を読む」


「退くべき時には退く」


「人間にできることを、すべてやる」


一歩。


また一歩。


洸牙は負傷者を背負い、雨の山道を進んでいく。


「それでも届かない最後の一歩を」


「どうか届いてくれと祈る」


蓮は自分の勾玉へ触れた。


祈ることは。


神へ答えを求めることではない。


自分の責任を預けることでもない。


人間として、できる限りを尽くした者が。


それでも諦めず。


届かない数センチへ、手を伸ばすこと。


「神頼みだけでは、人は救えない」


洸牙が言う。


「だが、祈りを失った人間は」


「最後の一歩で、手を離す」


青く光っていた蓮の右目が、静かに元の色へ戻る。


蓮はNOESISの登攀支援を解除した。


避難小屋へ続く山道を。


自分の目で見て。


自分の足で歩き始める。


「諏訪さん」


「なんだ」


「次は、山頂まで行きます」


洸牙は振り返らない。


「次も引き返すかもしれんぞ」


「それでも登ります」


「そうか」


僅かに。


洸牙の口元が緩んだ。


雲の向こうで。


山は何も答えない。


人が勝とうと。


人が負けようと。


ただ、そこに在り続ける。


その山を守り。


そこへ来る人を守る。


神の血を受け継ぎながら。


神の奇跡に頼ることなく。


敗北を知り。


それでも次の命へ手を伸ばす男。


その背中を見つめながら。


神崎蓮は思った。


山の神とは。


山を支配する者ではない。


人が無事に帰るまで。


最後まで、その背を支える者なのだと。

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