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NOESISーノエシスー  作者: 月乃瀬
第五章 十六氏族編
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第四話 技を極めし者

雨が降っていた。


山深い村の奥。


細い石段を登った先に、その屋敷はあった。


古びた木造の門。


軒先から落ちる雨粒。


門柱には、刀傷のように鋭い文字が刻まれている。


――村雨。


因幡剛は、その前に立っていた。


黒い特攻服。


腰には一振りの刀。


雷切。


剛は門を睨みつける。


「……ここで合ってんだよな」


返事はない。


代わりに。


背後で、雨音が一つだけ消えた。


「遅い」


剛は反射的に振り返った。


白刃が、喉元で止まっている。


水色の長い髪。


薄い赤色の瞳。


黒い装束。


村雨響香だった。


「うおっ!?」


剛は大きく飛び退く。


「いきなり斬りかかってくんじゃねえ!」


「今ので三度死んだ」


「一回しか斬ってねえだろ!」


「気づくのが遅い。踏み込みが雑。退いた先も悪い」


響香の左手が動く。


鞘に収まっていた二本目の村雨が、剛の脇腹へ突きつけられていた。


「これで四度目だ」


剛は言葉を失う。


あの日。


八王子第三ビルの屋上で。


剛は響香に勝った。


村雨流二刀十連撃を破り。


雷切を取り戻し。


電光石火雷切によって、彼女の中に巣食っていた黒龍を斬った。


確かに勝った。


だが。


剛自身が、誰よりも分かっていた。


あれは自分の実力ではない。


追い詰められ。


死の淵に立ち。


雷切が突如として目覚めた。


ただ、それだけだった。


もう一度戦えば。


今の自分では、十回戦って十回負ける。


「……俺に剣を教えてくれ」


響香の眉が、わずかに動いた。


「断る」


即答だった。


「まだ何も言ってねえだろ!」


「剣を教えろと言った」


「聞いてんじゃねえか!」


響香は刀を収め、門へ向かって歩き出す。


「お前は私に勝った。勝者が敗者へ教えを請う必要はない」


「勝ってねえ」


響香の足が止まった。


雨が二人の間を落ちていく。


剛は拳を握る。


「あれは、まぐれだ」


「…………」


「雷切が勝手に目覚めた。身体も勝手に動いた。どうやって斬ったのか、今でも分からねえ」


剛は腰の雷切を見下ろした。


「次も同じことができるなんて、思ってねえ」


「ならば捨てろ」


響香の声は冷たかった。


「扱えぬ刀は、持ち主を殺す」


「だから来たんだよ」


剛は顔を上げる。


「俺の知ってる中で、日本一強え剣士はあんただ」


響香の目が細くなる。


「世辞のつもりか」


「そんな器用なことできるか」


剛はまっすぐ響香を見る。


「爺ちゃんの真似をしたいわけじゃねえ」


「…………」


「雷切に全部やってもらう気もねえ」


雨に濡れた前髪の奥で。


剛の瞳だけが、強く燃えていた。


「次に雷切を振るう時は」


「俺の意志で」


「俺の技で斬りたい」


長い沈黙。


響香は剛を見つめていた。


かつて因幡小次郎へ挑んだ、十三歳の自分。


何度敗れても立ち上がり。


扇子一本で叩き伏せられてなお、刀を捨てられなかった少女。


剛の目には。


あの日の自分と同じ、どうしようもない執念が宿っていた。


「入れ」


響香は、それだけを告げた。


門の奥には、巨大な鍛錬場があった。


壁一面に、無数の刀が掛けられている。


太刀。


脇差。


直刀。


双刀。


どれも美術品ではない。


人を斬るためではなく。


技を残すために打たれた刀だった。


「すげえ……」


「村雨家は、刀剣鍛冶と剣術の家系だ」


響香は二振りの村雨を刀掛けへ置く。


「千年以上、刀を打ち、その刀を最も正しく扱う技を磨いてきた」


「千年……」


「お前は、十六氏族を知っているな」


剛の表情が変わる。


響香は振り返った。


「村雨家は、その一つだ」


「……あんたが当主なのか」


「そうだ」


「あんた、八咫烏じゃなかったのかよ」


「所属していた。それだけだ」


響香の声に、わずかな苦みが混じる。


「十六氏族は、徐福の配下ではない」


「だが村雨家は長い年月の中で、八咫烏へ取り込まれた」


「私もまた、剣を極めたいという欲望を利用された」


響香は壁の奥から、一冊の古びた巻物を取り出した。


そこには二つの家紋が描かれている。


村雨家。


そして。


因幡家。


「因幡家は、刀を振るう者の家」


「村雨家は、刀を鍛える者の家」


「戦場では互いに競い、平時には互いの技を磨いた」


響香は巻物を開く。


そこには、一人の剣士と一人の刀鍛冶が向かい合う姿が描かれていた。


「村雨が刃を打ち」


「因幡が、その限界を試す」


「因幡が新たな技へ到達すれば」


「村雨は、その技に耐える刀を打つ」


「どちらか一方だけでは、極地へは辿り着けない」


剛は、初めて知る家の歴史を見つめていた。


神の血でもない。


神器の奇跡でもない。


一人の人間が生涯をかけて得た技を。


次の人間へ。


そのまた次の人間へ。


気の遠くなるほど、受け継いできた。


「小次郎は、その果てにいた」


響香が静かに告げる。


「あの男は、雷切があったから強かったのではない」


「雷切をただの刀として扱えるほど、技を極めていた」


剛の胸に、その言葉が突き刺さる。


「今のお前は逆だ」


「雷切に振り回されている」


「……分かってる」


「分かっているだけでは、何も変わらない」


響香は木刀を一本、剛へ投げた。


剛が受け取る。


「抜け」


「木刀をか?」


「雷切をだ」


剛は戸惑いながら、雷切を抜いた。


刀身に淡い雷光が走る。


響香は木刀一本。


剛は雷切。


「本気で来い」


「おい。木刀じゃ――」


次の瞬間。


剛の手から、雷切が消えた。


甲高い音。


雷切は数メートル先の床へ突き刺さっていた。


剛の額には、響香の木刀が触れている。


「五度目だ」


「……くそっ!」


剛は雷切を拾い上げる。


再び構える。


踏み込む。


弾かれる。


倒される。


立ち上がる。


斬りかかる。


転がされる。


何度繰り返しても。


雷切の刃は、響香へ届かなかった。


やがて剛は膝をついた。


息が上がる。


両手の皮は破れ、柄が血で濡れていた。


「どうした」


響香は息一つ乱していない。


「雷は、もう落ちないのか」


剛は歯を食いしばる。


雷切は応えない。


八王子の時のような、巨大な雷光は起こらない。


「立て」


「まだ……やんのかよ」


「自分の雷切を見つけるのだろう」


響香の木刀が剛の眼前へ向けられる。


「ならば、雷を待つな」


「自分で起こせ」


剛はふらつきながら立ち上がった。


雷切を構える。


剣士としては、あまりに不格好だった。


腰が高い。


握りも硬い。


肩に余計な力が入っている。


それでも。


倒されるたびに、構えは少しずつ変わっていた。


剛は天才ではない。


一度見ただけで技を理解する頭脳もない。


神の声を聞く霊力もない。


未来を見通す瞳もない。


あるのは。


倒されても立ち上がる、ただそれだけの力。


十度。


二十度。


三十度。


響香の木刀が、剛の肩を打つ。


それでも剛は雷切を離さなかった。


響香の目が、わずかに変わる。


因幡小次郎の剣ではない。


村雨響香の剣でもない。


拳を握り。


殴り合い。


何度倒されても前へ出てきた。


因幡剛という人間の間合い。


「……そうか」


響香は呟いた。


「お前は最初から、剣士ではない」


「今さら何言ってやがる……」


「ならば、剣士になろうとするな」


響香の木刀が振り下ろされる。


剛は受けなかった。

刃が額へ触れる寸前。


顔を攻撃線の外へずらし、腰を切る。


空手で幾千度となく繰り返してきた、突きを見切るための体捌き。


ただし、退かない。


紙一重で刃を外しながら、響香の懐へ潜り込む

そこは剣士の間合いではない。


拳を叩き込むための、因幡剛の間合いだった。


最短距離から、雷切を振り抜く。



木刀と雷切が交差した。


乾いた音。


響香の木刀の先端が、宙を舞った。


剛は目を見開く。


雷は落ちなかった。


眩い光もなかった。


ただ。


雷切の刀身に、小さな紫電が走っていた。


響香は折れた木刀を見つめる。


そして。


ほんのわずかに笑った。


「ようやく一度だ」


剛は肩で息をしながら、口元を上げる。


「じゃあ……あと四回やり返せば、五分だな」


「馬鹿か」


響香は新しい木刀を手に取った。


「今ので、お前は六度死んでいる」


「増えてんじゃねえか!」


「構えろ、因幡剛」


雨は、まだ降り続いていた。


村雨が刃を磨き。


因幡が技を磨く。


千年続いた二つの家の研鑽が。


いま再び、動き始める。


雷切は、まだ目覚めていない。


いや。


目覚める必要などなかった。


あの日、偶然落ちた雷を。


今度は自らの手で生み出すために。


因幡剛は。


何度でも立ち上がった。

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