第三話 武とはなんぞや
春日の山は、深い霧に包まれていた。
天城煌は、一人で石段を登っていた。
腰には草薙の剣。
椿玄道から告げられた、次なる十六氏族。
武神・武甕雷神の系譜。
春日家当主――春日鎮臣。
やがて。
霧の向こうから、鈴の音が聞こえた。
巨大な白鹿が現れる。
雪のように白い体。
天へ枝分かれする、神々しい角。
その背に、一人の男が座っていた。
赤褐色の髪。
右目を覆う眼帯。
巨大な数珠を首から下げた、岩のような巨躯。
武器は持っていない。
それでも煌の身体は、本能だけで理解していた。
――強い。
平将門と向き合った時とも違う。
殺気も。
敵意も。
構えさえない。
にもかかわらず、一歩踏み込めば命を断たれる。
そう確信させる何かが、その男にはあった。
白鹿が足を止める。
男はその背から、ゆっくりと降りた。
地面が、わずかに沈む。
「天城煌か」
「そうだ」
「我が名は、春日鎮臣」
鎮臣は、煌の腰へ目を向けた。
「それが、草薙か」
「ああ」
「抜け」
煌は眉を動かした。
「俺は戦いに来たわけではない」
「抜け」
鎮臣は、もう一度だけ言った。
煌は草薙の柄へ手をかける。
次の瞬間。
鎮臣の姿が消えた。
轟音。
煌の身体が石段を飛び、背後の大木へ叩きつけられた。
幹が砕ける。
草薙を抜く間すらなかった。
「……なるほど」
煌は立ち上がる。
口元の血を拭い、草薙を抜いた。
白銀の刃が、霧を切り裂く。
鎮臣は構えない。
ただ一言。
問いを放った。
「武とは、なんぞや?」
その言葉に。
煌の脳裏へ、一人の武人が浮かんだ。
坂東の地に立ち。
千の軍勢を背負い。
最後には自ら、剣を下ろした男。
「戈を止めることだ」
煌は答えた。
平将門との戦いで辿り着いた答え。
鎮臣は動かない。
「ならば、その剣で何を止める」
「徐福を止める」
「違う」
「黒龍を止める」
「違う」
鎮臣の左目が、鋭く細められた。
「お前が止めるべき戈は」
「敵のものだけではない」
煌は草薙を握ったまま、黙った。
「武振熊命を知っているか」
「ああ」
「かつて黒龍と戦い、追い詰めた古代の武人。今は徐福に呪われ、赤鬼として従わされている」
「ならば、問う」
鎮臣の声が山に響く。
「赤鬼を、どう止める」
「戦い、倒す」
「殺すのか」
「必要ならば」
「それで、戈は止まるか」
煌の答えが止まった。
鎮臣は、一歩だけ近づく。
「武振熊は、二千年もの間、戦わされ続けた」
「仲間を奪われ」
「名を奪われ」
「己が守ろうとした者を討った英雄として、偽りの歴史へ刻まれた」
霧の中。
両剣薙刀を握る赤鬼の姿が、煌の脳裏に浮かぶ。
その仮面に刻まれた、涙の意匠。
「その者を斬り伏せることが、お前の武か」
「……では、どうしろという」
「それを考えるために、お前はここへ来た」
鎮臣は、草薙の切っ先へ素手を伸ばした。
煌は反射的に剣を引こうとする。
だが。
鎮臣の指は刃をつかみ、微動だにしなかった。
「力なくして、戈は止められぬ」
「言葉だけでは、狂った刃の前に立つことすらできぬ」
鎮臣の指から、一筋の血が流れた。
「だが」
「力だけでも、戈は止まらぬ」
鎮臣は刃から手を離した。
「相手の腕を折れば、戦いは終わる」
「首を落とせば、二度と刃は向けられぬ」
「それは戈を壊しただけだ」
「止めたのではない」
煌は草薙を見る。
この剣があれば、多くの敵を斬れる。
強大な力をもって、戦場を制圧できる。
だが。
武振熊を倒した先に残るものは何か。
徐福に裏切られ。
黒龍に呪われ。
二千年もの間、望まぬ戦いを続けさせられ。
最後には、英雄の剣によって討たれる。
それでは。
あまりにも救いがない。
「戈を止めるとは」
鎮臣が告げる。
「振るう者の前に立ち」
「その怒りも、悲しみも、すべて受け止めたうえで」
「自らの意志で、下ろさせることだ」
風が吹く。
山を覆っていた霧が、ゆっくりと割れていく。
「武振熊命は、敵ではない」
煌が呟いた。
「そうだ」
「ならば俺は、奴と戦う」
鎮臣の左目が光る。
「倒すためではない」
「二千年間、握らされ続けた武器を」
「自分の意志で下ろさせるために」
煌は草薙を鞘へ収めた。
澄んだ音が、春日の山へ響く。
「そのためには、まず」
「奴の全力を、真正面から受け止める」
鎮臣は初めて、わずかに笑った。
「戈を収めさせるには」
「その戈から、逃げぬ者が要る」
白鹿――白耀が、静かに煌へ歩み寄った。
大きな頭を下げ、その額を煌の胸へ触れさせる。
淡い光が広がった。
その光の中に。
一人の武人が立っていた。
まだ鬼ではなかった頃の、武振熊命。
両剣薙刀を大地へ突き立て。
傷ついた朱童と白夜を背に庇いながら。
黒龍へ立ち向かっている。
怪物ではない。
守ろうとしていた。
彼もまた。
自らの武によって、戦いを終わらせようとしていた。
「名を呼べ」
鎮臣が言った。
「赤鬼ではない」
「徐福に与えられた、呪いの名でもない」
「奴が人であった頃の名を呼べ」
煌は、その姿を見つめる。
「武振熊命」
光の中。
古代の武人が、わずかに振り返った。
「お前の戈は」
「俺が止める」
白い光が消える。
春日の山へ、再び静寂が戻った。
鎮臣は煌に背を向け、白耀の背へ乗る。
「武とは、なんぞや?」
同じ問い。
だが今度は。
煌の答えに、迷いはなかった。
「最後まで戦い抜く力」
「そして最後に」
「敵と己、その両方の剣を下ろす意志だ」
鎮臣は何も答えない。
白耀とともに、霧の奥へ消えていく。
ただ。
最後に一言だけ。
低い声が残された。
「ならば示せ」
煌は一人、春日の山に立っていた。
腰には草薙の剣。
それは敵を斬るための神器ではない。
二千年もの間。
終わることを許されなかった、一人の武人の戦いを。
今度こそ。
終わらせるための剣だった。




