第二話 ウカ様とこんちゃん
「うーん!」
安倍天明は、腕を組みながら首を傾げていた。
「気になるなぁ」
「千年の記憶を宿す存在って、なんやねん」
車折千代の言葉が、頭から離れない。
――千年の記憶を眠らせた安倍家。
たしかに安倍家は古い。
陰陽師として千年以上の歴史を持ち、安倍晴明の術式と祭具を代々受け継いできた。
しかし。
それはあくまで、家系と技術の継承である。
記憶まで受け継いだ覚えはない。
少なくとも。
天明自身には。
「まぁ、考えててもしゃあない」
天明は立ち上がった。
「せっかく地元の京都まで来たんや」
「久しぶりに、ウカ様とこんちゃんに会うてくるわ」
蓮が顔を上げる。
「一人で行くのか?」
「稲荷山はなぁ、正しい道を歩かんとウカ様には会われへんねん」
「狐が人を化かしとるからな」
剛が眉を寄せた。
「大丈夫なのかよ」
「道なら知っとる」
天明は懐から、小さな円盤を取り出した。
幾重もの紋様が刻まれた霊力盤。
中央の針が、かすかに震えている。
「この霊力盤が指す方向へ歩けばええ」
「最新式や」
蓮は霊力盤を見つめた。
「それ、千年以上前から安倍家にある術具じゃないのか」
「細かいこと気にしたら、大きい男になれへんで」
「じゃあ、ワシはここでさいなら」
「歩いていくわ!」
誰の返事も待たず。
天明は、ひらひらと手を振った。
――稲荷山。
朱色の鳥居が、山の奥へ連なっている。
一つ。
また一つ。
天明は霊力盤を見ながら、細い山道を歩いていた。
「こっちやな」
針が右を指す。
右へ曲がる。
しばらく歩く。
同じ場所へ戻ってきた。
「……おかしいな」
もう一度、針を見る。
今度は左。
左へ進む。
再び。
同じ場所へ戻ってきた。
石灯籠の上に、一匹の狐が座っている。
まるで笑っているように、目を細めていた。
「やっとるなぁ」
天明は狐を睨んだ。
「ワシ、安倍家の当主やぞ」
「そのへんの観光客と一緒にしたらあかんで」
狐は尻尾を揺らす。
その瞬間。
霊力盤の針が勢いよく回り始めた。
「ちょっ」
「壊すなや! これ高いんやぞ!」
狐は山の奥へ駆けていく。
「待たんかい!」
天明は、そのあとを追った。
鳥居をくぐる。
もう一つ。
さらに一つ。
いつの間にか、周囲から人の気配が消えていた。
風の音さえない。
木々の隙間から差し込む光だけが、白く道を照らしている。
その先に。
小さな社が見えた。
「……あった」
天明は息を整え、社へ向かって声を張り上げた。
「ウカさまー!」
「おるー!?」
返事はない。
「こんちゃーん!」
「遊びに来たでー!」
社の陰から。
白い髪が、ひょこりと覗いた。
赤い瞳。
白を基調とした巫女装束。
見た目は十歳ほどの、小さな少女。
その肩には。
一匹の白狐が、偉そうに胸を張って座っていた。
「おったおった!」
天明は笑顔で手を振る。
「やぁ、こんちゃん。お久しゅう」
白狐が目を細めた。
「なんだ、お主か」
「久しぶりに会うたのに冷たいなぁ」
ウカ様は天明の姿を見ると、少しだけ目を輝かせた。
しかし。
すぐに恥ずかしそうに俯き、こんちゃんの耳元へ口を寄せる。
小さな声で、何かを囁いた。
こんちゃんは大きく頷く。
「久しぶりだ。元気そうで何より、と仰せである」
「やっぱり、まだ自分では喋られへんのかいな」
ウカ様の頬が、わずかに膨らんだ。
「無礼者!」
こんちゃんが叫ぶ。
「ウカ様は声を出せぬのではない!」
「必要のない言葉を口になさらぬだけだ!」
「ほぼワシとは喋る必要ない言うてへん?」
ウカ様は慌てて首を横に振る。
そして、こんちゃんへ耳打ちする。
「大変失礼な奴だ、と言っておられる」
ウカ様が目を見開き。
激しく首を横に振った。
天明は眉を寄せた。
「ん?」
「違ったか?」
こんちゃんは、しれっと顔を逸らした。
「だいたい同じ意味だ」
「お前、いま話盛ったやろ」
ウカ様が小さく頷く。
「神使が主人の言葉を盛ったらあかんやろ!」
静まり返っていた神域に、天明の声が響く。
ウカ様は口元を袖で隠し。
ほんの少しだけ、笑っていた。
「それで?」
こんちゃんが尋ねる。
「今日は何の用だ」
「十六氏族や」
その言葉に。
ウカ様の笑みが消えた。
山の空気が変わる。
止まっていた木々が、一斉にざわめいた。
「椿玄道と車折千代に言われてなぁ」
「日本各地に散らばった十六氏族に会うて、祈りを集めなあかんらしい」
「ウカ様も、その一人なんやろ?」
天明は少女を見つめる。
白い髪。
赤い瞳。
人の姿をしているが、人とは明らかに違う気配。
「どう見ても、神様っぽいもんなぁ」
こんちゃんの毛が逆立った。
「ぽいとは何だ!」
「ウカ様は神である!」
ウカ様が、こんちゃんへ耳打ちする。
「大変失礼な奴だ、と言っておられる!」
ウカ様は再び、首を横に振った。
「また違うんかい!」
「こんちゃんを通したら、ウカ様がだいぶ口悪なるなぁ!」
こんちゃんは答えず。
肩の上から、じっと天明を見つめた。
先ほどまでの軽い眼差しではない。
鼻先を動かし。
天明の奥にある何かを嗅ぎ取る。
「お主」
「なんや?」
「変な匂いがする」
「いきなり失礼やな。ちゃんと風呂入っとるで」
「そういう匂いではない」
こんちゃんは、天明の肩へ飛び移った。
首筋。
耳元。
そして、額の前。
古い文字を読むように、ゆっくりと確かめる。
「晴明の匂いがする」
天明の笑みが、わずかに止まった。
「そら、安倍家やからな」
「先祖の匂いぐらい――」
「違う」
こんちゃんの赤い瞳が細くなる。
「お前、晴明ではないな」
天明は黙る。
白狐は、さらに奥を覗いた。
「もっと古い」
「人の一生では届かぬほど、古い匂いだ」
「晴明の奥に」
「さらに別の時代が眠っている」
天明の背筋に。
冷たいものが走った。
ウカ様が、こんちゃんが肩から降りる。
一歩。
また一歩。
天明の前へ立った。
「ウカ様?」
小さな手が伸びる。
天明の額へ。
指先が触れた。
その瞬間。
世界が反転した。
夜。
星空。
京の都を見下ろす、高い祭壇。
無数の札が宙を舞っている。
天明は、そこに立っていた。
いや。
立っているのは、自分ではない。
長い黒髪。
白い狩衣。
五芒星の紋。
視界の端に映る手が、古い日本地図の上へ札を置いていく。
一枚。
また一枚。
山へ。
川へ。
神社へ。
寺へ。
名もなき小さな祠へ。
光の線が、日本各地を結んでいく。
『術だけでは、黒龍を封じられぬ』
声が響く。
それは天明の声ではない。
しかし。
自分の内側から聞こえていた。
『人の憎しみは、時代を越えて積み重なる』
『ならば我らも』
『時代を越えて、祈りを積み重ねる』
別の場所から。
低く、静かな真言が聞こえる。
時代も。
場所も違う。
それでも二つの術は、地の底でつながっていた。
陰陽道が、天に星の道を描く。
真言が、地に祈りの道を刻む。
『天と地』
『日と月』
『二つの極を結び――』
黒い龍の咆哮。
視界が大きく揺れる。
十六の光。
白い狐。
舞う女。
山を歩く僧。
そして。
鬼の角を持つ、幼い双子。
『――日月双極』
その先が聞こえない。
白い光が弾けた。
「うわっ!」
天明は、その場へ尻餅をついた。
呼吸が荒い。
額から汗が流れていた。
「なんや……いまの」
ウカ様は、悲しそうな目で天明を見つめている。
こんちゃんが静かに告げた。
「記憶だ」
「誰の?」
「お主のものではない」
「だが、お主の中にある」
天明は自分の胸元を握った。
知らない景色だった。
知らない術だった。
それなのに。
指の動きも。
札の置かれた場所も。
次に紡ぐはずだった言葉さえ。
ずっと昔から知っていたように思える。
「晴明公の……記憶なんか?」
こんちゃんは答えない。
ウカ様が小さく首を横へ振る。
そして。
天明の胸へ指を向ける。
次に、さらに奥を示すように。
もう一度。
指を伸ばした。
「晴明だけではない、と仰せだ」
こんちゃんの声が低くなる。
「その記憶は、晴明よりも古い時代から始まっている」
「お主の家は術を継いだのではない」
「使命そのものを、人から人へ運んできた」
天明は、乾いた笑いを浮かべた。
「やめてぇな」
「ワシ、そない重たいもん、頼んだ覚えないで」
こんちゃんは天明を見つめる。
「誰も頼んでいない」
「受け継ぐとは、そういうものだ」
天明から笑みが消えた。
黒龍を封じるために。
千年後へ術を残した者がいる。
そして自分は。
偶然、この時代に生まれたのではない。
「全部、思い出せるんか?」
ウカ様は首を横に振った。
そして。
山の向こうを指差した。
天明の記憶に、一人の男の後ろ姿が浮かぶ。
長い黒髪。
擦り切れた黒い羽織。
手にした数珠。
だが、その姿はすぐに霧の中へ消えた。
「まだ時ではない」
こんちゃんが言う。
「祈りの道を歩け」
「十六氏族に会い、失われた記憶をつなげ」
「いずれ」
「お主が最も恐れている者と向き合った時」
「扉は、すべて開く」
天明は悟った。
徐福。
二千年を生きる、歴史の改竄者。
あの男と向き合えば。
自分の中に眠る何かも。
天明を見つめ返す。
「……ほんま」
ゆっくりと立ち上がる。
震える膝を、装束の上から叩いた。
そして。
いつもの柔らかな笑みを、無理やり顔を戻す。
「ふざけてへんと、やってられへんなぁ」
ウカ様が心配そうに、天明の袖をつかんだ。
「大丈夫や」
天明は、その小さな頭へ手を置く。
「まだ全部は思い出してへん」
「せやから、怖がるんは思い出してからにするわ」
ウカ様は少しだけ迷い。
やがて、こくりと頷いた。
「ところで」
天明はこんちゃんを見る。
「帰り道は、普通に帰してくれるんやろな?」
こんちゃんは胸を張る。
「もちろんだ」
――二時間後。
「ここ、さっきも通ったやろー!!」
稲荷山に。
安倍天明の叫び声が響いた。
その手の中で。
霊力盤の針は、楽しそうに回り続けていた。
そして。
天明の記憶の奥深く。
忘れられていた十六の光が。
千年の時を越え。
一つだけ。
静かに灯り始めていた。




