第一話 日本の祈り
山の風が、静かに木々を揺らしていた。
椿玄道は五人へ背を向けたまま、錫杖を地面へ突き立てた。
澄んだ音が鳴る。
その音は山へ吸い込まれ、遠いどこかへ道を開くように消えていった。
「徐福は二千年をかけ、人の憎しみを集めた」
低い声だった。
「恨み。恐れ。妬み。欲望。そして、誰かを支配したいという願い」
「それらすべてが、黒龍の力となっておる」
蓮は黙って聞いていた。
徐福と黒龍のつながりは断たなければならない。
しかし。
今の自分たちだけでは届かない。
それは、NOESISによる解析を必要としない事実だった。
剛が拳を握る。
「だったら、俺たちがもっと強くなりゃいい」
「その通りじゃ」
玄道は否定しなかった。
だが。
ゆっくりと振り返る。
「ただし、一人で強くなるのではない」
「お前たちは、これより日本各地に散らばる十六の氏族を訪ねよ」
「十六氏族?」
煌の眉がわずかに動いた。
「神代より、この国を支えてきた者たちじゃ」
神に仕える者。
土地を守る者。
剣を鍛える者。
山で命を救う者。
人を雇い、暮らしを支える者。
現代では互いの存在すら知らず、それぞれの場所で生きている。
それでも。
古い血と役目だけは、途切れることなく受け継がれていた。
「彼らに会い、認められよ」
「そして、力を借りるのじゃ」
天明がいつもの薄い笑みを浮かべる。
「また、えらい大仕事を気軽に言わはりますなぁ」
「ワシ、人付き合いは苦手なんですけど」
玄道は無言で天明を見た。
「……冗談ですやん」
天明の笑みが引きつった。
剛が小さく笑う。
「お前、この爺さんには弱いよな」
「爺さん言うな。聞こえたら山に埋められるで」
「聞こえておる」
「ほらぁ!」
張りつめていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
玄道は気に留める様子もなく、続けた。
「まずは車折家を訪ねよ」
「車折千代」
「天宇受売命の系譜を継ぐ、舞と祈りの巫女じゃ」
「お前たちに必要なものを、あの者は知っておる」
風が吹く。
木々の隙間から、細い光が五人を照らした。
「徐福に対抗する力を身につけよ」
「これは戦ではない」
「日本に散らばった祈りを、もう一度つなぎ直す旅じゃ」
――京都。
車折家の屋敷には、鈴の音が響いていた。
ちりん。
ちりん。
庭の中央。
一人の女が、笹の葉を手に舞っている。
紅梅色の髪。
深い青磁色の上衣。
灰桜の袴と金の飾りが、舞うたび陽光を反射する。
見た目は若い。
二十代と言われても信じられる。
しかし、その瞳の奥には、誰にも測れないほど長い時間が流れていた。
女は五人に気づくと、舞を止めた。
そして。
いたずらっぽく微笑む。
「あらあら」
「ずいぶんと賑やかなお客さまやこと」
剛が周囲を見回した。
「俺たちしかいねぇけど?」
「人数のお話やないの」
千代は扇子で剛の胸元を軽く指した。
「あなたたちの魂よ」
「神様を三人も連れて、雷まで背負って、千年分の秘密を抱えた陰陽師までおる」
天明の笑みが止まる。
「えらい見透かされてますなぁ」
「女の勘を甘く見たらあかんえ」
そう言って千代は笑った。
その笑みには、相手の警戒心を自然にほどく不思議な力があった。
澄華が一歩前へ出る。
「月乃瀬澄華と申します」
「椿玄道様より、車折千代様を訪ねるよう仰せつかりました」
「あら。ご丁寧にありがとう」
千代は澄華の前まで歩み寄る。
白銀の瞳を、間近から覗き込んだ。
「綺麗なお目々」
「でも、少し悲しすぎるわねぇ」
澄華は目を逸らさなかった。
「人の悲しみを見るための瞳ですから」
「いいえ」
千代は静かに首を振る。
「悲しみだけを見る鏡は、いつか自分まで曇らせてしまう」
「鏡はね」
「泣いている人だけやなく、笑っている人も映してええのよ」
澄華の瞳が、わずかに揺れた。
崇徳天皇の悲しみ。
月乃瀬に受け継がれてきた祈り。
そして。
自分が救えなかった者たち。
澄華はいつも、人の痛みを見ていた。
しかし千代は、その奥にあるものまで見つめていた。
「笑うことも、祈りなのでしょうか」
澄華が尋ねる。
千代は柔らかく微笑んだ。
「ええ」
「泣くことも。笑うことも。歌うことも。誰かの手を握ることも」
「人が明日を願ってすることは、みんな祈りになれる」
「祈りとは、静かに手を合わせることだけやないの」
庭の鈴が鳴った。
それまで黙っていた蓮が口を開く。
「椿玄道は、十六氏族に会えと言った」
「あなたが、その目的を知っていると」
「もちろん」
千代は五人を順番に見つめる。
蓮。
澄華。
煌。
剛。
そして天明。
「日本中の祈りを、一つにするためよ」
剛が眉を寄せた。
「俺たち五人で、十六の氏族を集めろってことか?」
「少し違うわねぇ」
千代は扇子を閉じた。
「あなたたちは、十六氏族を集める側であると同時に」
一拍。
「十六氏族、そのものやから」
沈黙が落ちた。
蓮の右目に青い光が走る。
だが。
NOESISの記録にも、その情報は存在しなかった。
千代は蓮を指す。
「八尺瓊勾玉を継ぐ神崎家」
次に澄華。
「八咫鏡を守る月乃瀬家」
煌。
「草薙の剣を継ぐ天城家」
剛。
「神の力を持たず、人の技をつないできた因幡家」
最後に。
天明。
「そして、千年の記憶を眠らせた安倍家」
天明から、いつもの笑みが消えていた。
澄華が静かに問う。
「月乃瀬家が特別な祭祀を継ぐ家であることは、知っていました」
「ですが、十六氏族という名は聞いたことがありません」
「ええ。知らなくて当然よ」
「十六氏族は、仲良しのお仲間でも、命令一つで集まる組織でもないもの」
千代は庭へ視線を向けた。
「二千年は長すぎた」
「歴史は消され、道は分かれ、それぞれが自分の土地を守るだけになった」
「神社にいる者もいれば、山で人を救っている者もいる」
「会社を動かして、この国の暮らしを支えている者もいる」
「自分が十六氏族だと知らない当主さえ、おるかもしれへん」
「それでも、会いに行くのですか」
澄華の問いに、千代は頷いた。
「知らないからこそよ」
「あなたたちは氏族を集めるのやない」
「忘れられた祈りを、思い出してもらうの」
千代は笹の葉を澄華へ差し出した。
澄華は両手で、それを受け取る。
「月乃瀬のお嬢さん」
「あなたの鏡は、人の真実を映す」
「せやけど、真実だけでは人の心は一つにならへん」
「人は正しさだけで、明日へ進めるほど強くないから」
澄華は笹の葉を見つめた。
「では、何が必要なのでしょう」
千代は微笑む。
「一緒に祈りたいと思えること」
「この人となら、明日を迎えたいと思えること」
「あなたには、その心を結ぶ力がある」
「わたしに、できるでしょうか」
「あら」
千代は扇子で口元を隠した。
「崇徳院の魂まで救ったお嬢さんが、今さら何を弱気なこと言うてるの」
澄華は驚いたように目を見開く。
やがて。
ほんの少しだけ、微笑んだ。
「……精進いたします」
「うん。ええお顔」
千代は五人の中央へ進む。
その瞬間。
庭に吊るされた無数の鈴が、一斉に鳴った。
風は吹いていない。
それでも音は屋敷を越え、京都を越え、遠い山々と海の向こうへ広がっていく。
まるで。
眠り続けていた何かを、呼び覚ますように。
「さあ」
車折千代は華やかに笑った。
「日本の神様たちに、会いに行きましょか」
「あなたたち自身が何者なのか」
「なぜ、この時代に生まれてきたのか」
「その答えを探しながら」
蓮は空を見上げた。
十六の氏族。
十六の土地。
十六の生き方。
そして。
二千年かけて積み重ねられた、人々の祈り。
徐福が集めてきたものが、人の闇であるなら。
自分たちは。
人の光を集める。
第五章。
それは、敵を倒すための旅ではない。
ばらばらになった日本の祈りを。
もう一度。
一つにつなぐための旅だった。




