第十三話 魂蝕
黒龍の咆哮に、音はなかった。
それでも山が沈んだ。
空気が押し潰され、岩盤が波打ち、四人の身体へ見えない重圧が降りかかる。
痛みが来たのは、そのあとだった。
「ぐっ――!」
武振熊が両剣薙刀を盾のように構える。
黒い奔流が刃へ衝突した。
金属が悲鳴を上げる。
武振熊の足元が砕け、巨体が後方へ押し流されていく。
ただの衝撃ではない。
黒い瘴気は刃を伝い、腕へ。
腕から胸へ。
肉体の奥にある、目に見えない場所へ入り込んだ。
その瞬間。
武振熊の視界が変わった。
目の前にいたのは黒龍ではない。
首を垂れた龍神だった。
――その願い、承ろう。
両剣薙刀が振り下ろされる。
龍神の首が落ちる。
だが、今度は光にならなかった。
血が噴き出した。
武振熊の全身を赤く染める。
地面へ転がった龍神の首が、目を開けた。
『神殺し』
声がした。
『英雄を名乗りながら、救われた神を斬った男』
「違う……」
武振熊の腕から力が抜ける。
『大王の命があれば、次は誰を斬る』
龍神の顔が朱童へ変わった。
白夜へ変わった。
最後には、徐福の顔になった。
『この者たちも、命じられれば斬るのだろう?』
「違う!」
武振熊は吠えた。
だが現実の彼は、何もない空へ両剣薙刀を振るっていた。
刃が岩を砕き、破片が朱童の頬を掠める。
「武振熊! そっちは敵じゃない!」
朱童が叫ぶ。
その声に振り返った瞬間。
黒龍の尾が横薙ぎに襲いかかった。
「朱童、伏せよ!」
徐福の声。
朱童は地面へ身を投げる。
黒い尾が頭上を通過し、岩山を根元から薙ぎ払った。
衝撃だけで朱童の身体が浮く。
地面へ叩きつけられ、肺から空気が抜けた。
「がっ……!」
立たなければ。
そう思った。
だが、手が動かない。
朱童の周囲を、無数の人影が取り囲んでいた。
かつて助けた村人たち。
手を合わせ。
宿儺様と呼んだ者たち。
その顔が、一つずつ恐怖へ歪んでいく。
『鬼だ』
『やはり鬼だった』
『人のふりをしていただけだ』
朱童の角へ石が当たる。
次に肩。
額。
胸。
痛みは幻ではない。
黒龍の瘴気が、精神の傷を肉体の痛みへ変えている。
「オレは……」
炎を出そうとする。
けれど、指先に灯った火を見て、人々はさらに怯えた。
『殺される』
『化け物だ』
『近づくな』
「違う!」
朱童は火を消した。
消したはずなのに。
村が燃えていた。
炎の中に白夜が倒れている。
『朱童が怒ったから』
『朱童の炎が、すべてを焼いた』
「オレじゃない……!」
拳を握る。
怒れば、黒龍の思うつぼ。
分かっている。
それでも。
「オレは、化け物じゃない!」
朱童の絶叫とともに炎が暴発した。
赤い火柱が天へ昇る。
黒龍は、その炎を浴びながら笑った。
痛がりもしない。
むしろ炎の中から、さらに濃い瘴気が生まれていく。
――そうだ。
――怒れ。
――お前の炎は、よく育つ。
「朱童!」
白夜が手を伸ばす。
だが、兄の姿が遠い。
一歩進むたびに、距離が伸びていく。
白夜の足元には、凍った湖が広がっていた。
その中央で。
白夜は一人だった。
「朱童?」
返事はない。
「徐福爺?」
声は氷の下へ吸い込まれる。
「武振熊……?」
誰もいない。
湖の底に、三人の姿が見えた。
朱童。
徐福。
武振熊。
皆、白夜へ背を向けて歩いていく。
『お前はいつも、誰かの後ろにいる』
黒龍の声がした。
『手を引かれなければ歩けない』
氷に亀裂が走る。
白夜は足を止めた。
『朱童がいなくなれば、お前には何も残らない』
「朱童は、いなくならない」
『毒龍の前で倒れた』
「立ち上がりました」
『黒龍との戦いで死ぬ』
「死なせません」
『では、お前が代わりに死ぬか』
湖面が割れた。
黒い水から無数の手が伸び、白夜の足首を掴む。
冷たい。
自分の氷より、ずっと冷たい。
腕が。
脚が。
心臓さえも凍っていく。
白夜は術を使おうとした。
けれど、指を結ぶことができない。
『お前には選べない』
『守られるだけの子供だから』
「……違い、ます」
声が震える。
視界の先で。
朱童の背中が、闇へ消えようとしていた。
「行かないで」
呼び止めても振り返らない。
白夜の青い瞳から涙が落ちた。
「一人に、しないで……」
現実の白夜は、黒い瘴気の中で膝をついていた。
身体を覆う氷が、少しずつ胸元へ迫っている。
自分の術が。
自分自身を凍らせていた。
「白夜!」
徐福が杖を振るう。
金色の札が飛び、白夜を覆う氷を砕く。
その直後。
黒龍の前脚が徐福へ振り下ろされた。
「徐福殿!」
武振熊が割って入る。
両剣薙刀で爪を受け止める。
轟音。
武振熊の膝が地面へ沈む。
左腕の傷が裂け、血が噴き出した。
「ぐうううッ……!」
「退け、武振熊!」
「退けば、徐福殿が潰される!」
黒龍の爪が、さらに重くなる。
物理的な重圧。
そして同時に。
武振熊の心へ、斬ってきた者たちの最期が流れ込む。
敵兵。
妖。
龍神。
名も知らぬ者たち。
そのすべての痛みを、一度に受け取らされる。
腕が裂かれる痛み。
首を刎ねられる恐怖。
残される者への未練。
「これが……」
武振熊の口から血が落ちる。
「我が、与えてきた痛みか……」
両剣薙刀が軋む。
黒龍が囁く。
――耐えられぬであろう。
――英雄とは、自分の痛みだけを知らぬ者だ。
武振熊の右腕が震えた。
刃が下がる。
黒龍の爪が迫る。
その下で。
徐福は印を結ぼうとしていた。
だが、指が動かなかった。
黒龍の赤い瞳が。
徐福だけを見ている。
――老いたな。
徐福の呼吸が止まる。
景色が変わった。
一人だった。
誰もいない庵。
薬草は枯れ。
書き残した竹簡は虫に喰われている。
朱童と白夜の姿はない。
武振熊もいない。
徐福は寝台の上で、手を伸ばす。
だが。
誰も、その手を取らない。
――お前は死ぬ。
黒龍の声だけが、優しかった。
――学んだことも。
――救った命も。
――愛した者たちとの日々も。
――すべて、お前と共に消える。
「消えぬ……」
徐福は答えようとした。
「朱童と白夜が、覚えておる」
暗闇の向こうに、成長した双子が現れる。
だが二人は、徐福の横を通り過ぎた。
振り返らない。
『誰だろう』
『知らない老人です』
徐福の胸が強く痛んだ。
「わしじゃ」
声が届かない。
「おぬしらに、術を教えた」
二人は遠ざかる。
「団子を分けた」
さらに遠くなる。
「傷へ薬を塗った」
姿が霞む。
「わしは……」
手を伸ばす。
「おぬしらの、師じゃ」
闇が双子を呑み込んだ。
黒龍が耳元で囁く。
――忘れられたくないか。
――まだ生きたいか。
――あの子らの未来を、見届けたいか。
徐福の指先へ。
黒い瘴気が絡みつく。
温かかった。
病んだ身体の痛みが消えていく。
咳も。
胸の苦しさも。
老いさえも。
「……生きたい」
言葉が漏れた。
黒龍の目が細くなる。
――それでよい。
徐福の手が。
瘴気へ伸びかけた。
その時。
「爺……!」
朱童の声が聞こえた。
弱々しく。
それでも確かに。
「どこ、見てんだよ……!」
幻が揺らぐ。
現実へ戻った徐福の目に映ったのは。
炎に焼かれながら立つ朱童。
自らの氷に身体を蝕まれた白夜。
黒龍の爪を支え、血を流す武振熊。
三人とも。
倒れる寸前だった。
それでも。
徐福を見ていた。
「爺が……」
朱童は荒い息を吐く。
「しっかりしろって、言ったんだろ……」
白夜も震える手を伸ばした。
「徐福爺……」
「私たちは、ここにいます……」
武振熊は歯を食いしばる。
「徐福殿!」
「指示を……!」
徐福は息を呑んだ。
黒い瘴気を振り払う。
杖を両手で握り。
地面へ突き立てた。
「皆!」
声を張り上げる。
「己の痛みだけを見るな!」
金色の術式が、四人の足元へ広がった。
「互いの声を聞け!」
光が立ち上がる。
だが。
黒龍の力が上回る。
術式に亀裂が走った。
徐福の口から血が溢れる。
朱童の炎が消えかける。
白夜を覆う氷が首元へ達する。
武振熊の両剣薙刀が。
ついに片方、折れた。
甲高い音。
黒龍の爪が四人を薙ぎ払う。
全員の身体が宙へ舞った。
朱童は岩壁へ。
白夜は滝壺の跡へ。
武振熊は折れた刃とともに地面へ。
徐福は杖を失い、黒い岩の上を転がった。
誰も。
すぐには立ち上がらない。
黒龍は傷一つ負っていなかった。
巨大な頭を下ろし。
倒れた四人を、楽しそうに見つめる。
――どうした。
――痛いであろう。
――苦しいであろう。
――もう、やめてもよいのだぞ。
四人の心へ。
甘い諦めが染み込んでいく。
戦わなくてよい。
立たなくてよい。
すべてを手放せば。
もう、痛くない。
朱童の指が、僅かに動いた。
白夜の瞼が震える。
武振熊は折れた両剣薙刀へ手を伸ばす。
徐福は血に濡れた地面で。
三人の名を呼ぼうとした。
けれど。
声にならなかった。
黒龍が大きく口を開く。
その奥で。
世界中の絶望が、一つの光へ集まっていく。
次の一撃を受ければ。
身体だけではない。
魂そのものが。
二度と元へ戻らない。
それでも。
四人の手は。
地面を掴んでいた。
まだ。
誰一人として。
完全には、諦めていなかった。




