第十話 四人の旅路
徐福が目を覚ました時。
最初に見えたのは、知らない天井だった。
粗く組まれた梁。
煤で黒くなった木。
その隙間から、朝の光が細く差し込んでいる。
「……生きておるか」
掠れた声で呟く。
「死んでたら返事できないだろ」
すぐ横から、不機嫌な声がした。
朱童だった。
布団の脇へ座り込み、膝を抱えている。
目の下には、薄い隈があった。
「おぬし、一晩中そこにおったのか」
「別に」
「寝ておらぬ顔じゃ」
「寝た」
「嘘が下手じゃな」
朱童は顔を背けた。
その向こうでは、白夜が壁にもたれて眠っていた。
徐福の袖を握ったまま。
離れまいとするように。
戸口には武振熊が座っている。
両剣薙刀を膝へ置き、外の気配へ耳を澄ませていた。
「徐福殿」
武振熊が振り返る。
「身体は」
「悪くない」
「嘘です」
眠っていたはずの白夜が目を開けた。
青い瞳が、まっすぐ徐福を見る。
「血を吐きました」
「少し咳き込んだだけじゃ」
「血を吐く咳は、少しとは言いません」
徐福は困ったように笑った。
朱童と白夜。
いつの間に、これほど口が達者になったのか。
自分が教えたのかもしれない。
だとすれば、これは自業自得というものだった。
「年を取れば、身体もあちこち傷む」
「薬は?」
朱童が問う。
「ある」
「飲んだのか」
「これから飲む」
「今飲め」
「朝飯のあとじゃ」
「じゃあ、朝飯を持ってくる!」
朱童は立ち上がると、勢いよく外へ飛び出した。
戸が壊れそうな音を立てる。
徐福はその背中を見送り。
小さく息を吐いた。
「怒っておるのう」
「心配しているのです」
白夜が言う。
「分かっておる」
「なら、ちゃんと休んでください」
「白夜まで厳しくなった」
「徐福爺が言うことを聞かないからです」
武振熊が低く笑った。
戦場では毒龍の爪を受け止めた男が。
今は、子供に叱られる老人を見て笑っている。
妙な一行だった。
だが。
妙であることが、いつの間にか心地よくなっていた。
◇
昼過ぎ。
四人は龍神の祠を後にした。
徐福はまだ本調子ではない。
それでも、村へ長く留まることはできなかった。
黒い鱗。
七難と毒龍を侵した、黒龍の痕跡。
その気配は、北の山々へ続いている。
黒龍へ近づいている。
四人の誰もが。
それを口にはしなかった。
「荷を持とう」
武振熊が徐福へ手を伸ばす。
「自分の荷くらい、自分で持てる」
「倒れた者の言葉とは思えぬ」
「おぬしも左腕を負傷しておろう」
「右腕がある」
「わしにも両足がある」
「では」
武振熊は徐福の荷を奪うように持ち上げた。
「その両足で歩かれよ」
徐福は目を瞬く。
朱童が笑った。
「武振熊の勝ちだな」
「勝負ではない」
「負け惜しみだ」
「おぬしは誰の味方じゃ」
「強い方」
「薄情者め」
白夜が、そっと徐福の袖を掴んだ。
「疲れたら言ってください」
「おんぶしてくれるのか」
白夜は徐福の背中を見上げた。
「たぶん、潰れます」
朱童が腹を抱えて笑う。
武振熊まで肩を揺らした。
徐福も笑った。
久しぶりに。
何も考えずに笑った。
◇
夕暮れ。
四人は川辺で野営することにした。
朱童が薪を集め。
白夜が水を汲み。
武振熊が捕らえた魚を捌く。
徐福は火のそばで、薬草を煎じていた。
「爺、それ美味いのか」
朱童が鍋を覗き込む。
「美味い薬など信用するな」
「じゃあ不味いんだな」
「とてもな」
「飲みたくない」
「おぬしの分ではない」
徐福が椀へ薬を注ぐ。
黒く。
濃く。
いかにも苦そうな液体だった。
白夜がじっと見ている。
武振熊も。
朱童も。
誰も何も言わない。
だが、視線だけは徐福から離れない。
「……飲めばよいのであろう」
徐福は一息で飲み干した。
苦味に顔を歪める。
朱童が満足そうに頷いた。
「よし」
「誰が師匠か分からぬな」
「今日はおれたちだ」
火が弾けた。
魚の焼ける匂いが漂う。
暮れゆく空には、赤と青が同時に残っていた。
朱童と白夜の色。
太陽と月の狭間。
「武振熊」
朱童が、焼けた魚を頬張りながら言った。
「神様を斬った時、怖くなかったのか」
武振熊の手が止まった。
炎の向こう。
その表情は静かだった。
「怖かった」
朱童が意外そうに目を丸くする。
「お前でも?」
「我を何だと思っておる」
「でかくて、固くて、怖くない奴」
「概ね熊だな」
徐福が言う。
武振熊は無視した。
「刃を振るうことが怖いのではない」
「振るったあとに戻れぬことが、怖い」
「戻れない?」
白夜が聞く。
「あの一撃を放った我は、もう放つ前の我ではない」
「龍神の願いを聞いたことも」
「その首を刎ねたことも」
「決して消えぬ」
武振熊は左腕の傷へ触れた。
「だから忘れぬ」
「忘れぬことでしか、背負えぬものもある」
朱童は黙って魚を見た。
白夜も。
しばらくして。
朱童が小さく言う。
「じゃあ、おれも覚えておく」
「何をだ」
「龍神のこと」
白夜も頷いた。
「私もです」
徐福は三人を見つめていた。
この子らは。
覚えていくのだろう。
出会った者を。
救えた者を。
救えなかった者を。
そして。
いつか、自分のことも。
「忘れられるのが怖いですか」
白夜が不意に問うた。
徐福は少し驚いた。
「どうしてそう思う」
「さっき、寂しそうな顔をしていました」
朱童も徐福を見る。
武振熊も。
焚き火の音だけが響く。
徐福は空を見上げた。
夜が来る。
星は、何千年も前から同じ場所にあるように見える。
だが。
人はそうではない。
「怖いとも」
徐福は答えた。
「わしが死ねば」
「学んだことも」
「歩いた土地も」
「救った者の顔も」
「わしの中からは、すべて消える」
「なら、おれが覚えとく」
朱童はあっさりと言った。
徐福が振り返る。
「白夜も覚えるだろ」
「はい」
白夜は微笑む。
「武振熊も」
「無論だ」
三人の答えに。
徐福は言葉を失った。
それほど簡単なことだったのか。
人は一人で、すべてを持ち続けなくてもよい。
誰かへ渡せばよい。
知恵も。
記憶も。
願いも。
「そうか」
徐福は笑った。
優しく。
けれど、少し疲れた笑顔で。
「ならば」
「まだしばらく、忘れられずに済みそうじゃな」
その夜。
朱童は焚き火の横で眠り。
白夜は徐福の肩へ寄りかかり。
武振熊は少し離れた場所で、両剣薙刀を抱えて目を閉じた。
徐福だけが、眠らずにいた。
懐には。
封じた黒龍の鱗がある。
布越しに。
それは微かに脈打っていた。
――忘れられたくないか。
声は聞こえない。
まだ。
ただ。
徐福は胸元を押さえた。
咳をこらえながら。
眠る三人を見つめる。
「この子らの明日を見るまでは」
誰に言うでもなく。
そう呟いた。
川の向こう。
山々の奥で。
巨大な黒い影が。
静かに目を開けた。




