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NOESISーノエシスー  作者: 月乃瀬
第四章 ー双生陰陽師編ー
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第八話 龍神の涙

毒龍は、四人を見下ろしていた。


腐った滝を背に。


黒緑の翼を広げ。


その巨体から、絶えず毒の霧を垂れ流している。


けれど。


その瞳にあったのは、獣の怒りではなかった。


もっと古く。


もっと深いもの。


人に忘れ去られた神だけが持つ、取り返しのつかない悲しみだった。


「我は、この山の水を守っていた」


毒龍の声が、滝壺を震わせる。


「まだ、この地に道もなく」


「人が山を恐れ」


「闇に火を灯しながら眠っていた頃から」


翼がゆっくりと閉じられる。


その動きだけで、毒の霧が波のように押し寄せた。


徐福の札が淡く光る。


毒避けの術が、四人の周囲へ薄い膜を張った。


「人は我を、龍神と呼んだ」


毒龍は続ける。


「旱魃の時には水を求め」


「病の時には癒やしを求め」


「子が生まれれば加護を求め」


「死者が出れば、魂の安らぎを求めた」


かつて。


滝のそばには、小さな祠があった。


人々は花を捧げ。


米を置き。


手を合わせた。


龍神は、それに応えた。


雨を呼び。


川を満たし。


濁った水を清め。


山から獣が下りれば追い払った。


人の祈りは届いていた。


だから龍神も、人を信じていた。


「我は、応えた」


毒龍の声が低くなる。


「一度たりとも、祈りを拒んではおらぬ」


白夜は何も言わず、その顔を見上げている。


黒く腐った鱗の隙間から。


僅かに青白い光が漏れていた。


それは、かつての龍神の力。


まだ完全には失われていない。


「だが」


毒龍の濁った目が細くなった。


「我が病んだ時」


滝の音が。


一瞬だけ、遠くなった。


「誰も、我を救わなかった」


朱童の拳が、わずかに下がる。


毒龍は、自らの胸元へ爪を立てた。


黒い血が流れる。


「身体が重くなった」


「水を清められぬ日が増えた」


「雨を呼べぬ夜もあった」


「我は待った」


「人が来るのを」


「祈りではなく」


「ただ、我を案じてくれる者が来るのを」


来なかった。


人々は、最初こそ龍神の回復を願った。


しかし。


水が濁り。


魚が減り。


病が広がると。


祈りは、疑いへ変わった。


疑いは、恐れへ。


恐れは、怒りへ。


「あれは龍神ではない」


「呪い神だ」


「病を撒いている」


そう言われた。


祠は壊された。


供物は踏みつけられた。


石が投げられた。


毒龍の片目に残る傷へ。


大きな石がぶつかった。


その日。


龍神は初めて、人を憎んだ。


「我が与えた水で、生きてきた者たちが」


毒龍の声が震える。


「我へ石を投げた」


長い髭から。


黒い雫が落ちた。


毒ではない。


涙だった。


「我が病んだだけで」


「我を、呪いと呼んだ」


白夜が唇を噛む。


「それは……」


声が出ない。


悲しすぎた。


けれど。


その悲しみは、村を毒してよい理由にはならない。


白夜にも、それは分かっていた。


毒龍は滝壺へ顔を向けた。


「後になって、知った」


「人の心は、すでに蝕まれていた」


「七難」


武振熊が低く呟く。


毒龍の瞳が、朱童たちへ戻る。


「あの悪鬼は、人の苦しみを集めていた」


「貧しさを」


「病を」


「恐れを」


「互いを疑う心を」


「村人たちは、我を憎んだのではない」


「憎むものを、探していただけだ」


朱童は顔を歪めた。


「じゃあ、あいつが……」


「七難だけではない」


毒龍は否定する。


「闇は元より、人の中にあった」


「七難は、それを広げただけだ」


徐福は黙って聞いていた。


杖を握る指に。


ゆっくりと力がこもる。


人を救ってきた。


何度も。


けれど。


人は救われたあとも、また誰かを傷つける。


恐れれば疑い。


苦しめば弱い者へ石を投げる。


それでも人を信じられるか。


毒龍は。


その問いそのものだった。


「そして」


毒龍の声が。


さらに低くなる。


「我が人を呪った夜」


空が黒く染まった。


それは、過去の記憶。


毒龍の周囲へ黒い霧が集まり。


滝壺の水面に、巨大な影が映し出される。


龍の姿。


だが。


肉体を持たぬ。


怒りと欲望だけが凝り固まったような、黒い龍。


「そやつは、我に申した」


毒龍の声へ。


別の声が重なった。


――許せぬな。


――許せぬな、龍神よ。


水面の黒龍が嗤う。


――我らは同じ龍族。


――人ごときに祀られ。


――人ごときに捨てられ。


――それでもまだ、守るというのか。


黒龍の身体が。


毒龍の影へ巻きついていく。


――この黒龍が、力を貸してやろう。


――その病も。


――その痛みも。


――すぐに楽にしてやろうぞ。


毒龍は目を閉じた。


苦痛は、確かに消えた。


熱も。


身体を内側から喰らう病も。


何百年と続いた苦しみも。


その代わりに。


身体の奥へ、黒いものが入った。


「楽になった」


毒龍は呟いた。


「その時だけは」


「だが、次に目を開いた時」


「我は、もう我ではなかった」


毒が水へ流れ。


魚が死に。


木々が枯れ。


村人たちが倒れた。


それを見ても。


心のどこかで。


当然だと思っていた。


苦しめばよい。


我と同じように。


見捨てられる痛みを味わえばよい、と。


徐福の胸が痛んだ。


毒龍の言葉が。


自分へ向けられているように聞こえる。


人を救い続け。


頼られ。


称えられ。


けれど。


自分が老い。


力を失い。


誰からも必要とされなくなった時。


自分は、どうなる。


「徐福爺」


朱童の声で。


徐福は我に返った。


朱童が、こちらを見ている。


白夜も。


武振熊も。


徐福は一瞬だけ目を伏せた。


毒龍の苦しみは分かる。


あまりにも。


分かりすぎる。


だからこそ。


飲み込まれるわけにはいかなかった。


「龍神よ」


徐福は前へ出た。


「おぬしが受けた仕打ちを、わしは軽いとは思わぬ」


毒龍の瞳が、僅かに動く。


「祠を壊した者にも」


「石を投げた者にも」


「罪はある」


朱童が徐福を見る。


その声に。


責める響きはなかった。


ただ。


痛みを認める者の声だった。


「じゃが」


徐福は杖を地面へ突く。


「苦しんだからといって」


「他者を苦しめてよい理由にはならぬ」


毒龍の目が細くなる。


「人を庇うか」


「庇ってはおらぬ」


徐福は即座に答えた。


「止めるのじゃ」


「人の罪も」


「おぬしの呪いも」


「黒龍の企みも」


滝壺に映る黒い影が、揺れた。


毒龍が牙を剥く。


「綺麗事を」


「そうかもしれぬ」


徐福は認めた。


「それでも」


「綺麗事を捨てた者から、呪いへ堕ちていく」


その言葉は。


毒龍へ向けたものだった。


同時に。


未来の自分へ言い聞かせる言葉でもあった。


武振熊が一歩前へ出る。


「徐福殿」


「我が、先に出る」


両剣薙刀を構える。


刃が朝の光を反射する。


朱童の手に炎が灯り。


白夜も手印を結ぶ。


毒龍は翼を大きく広げた。


怒り。


悲しみ。


恐れ。


すべてを吐き出すように。


「人は、我を救わなかった」


「おぬしらも同じだ」


「救うと言いながら」


「最後には斬る!」


「ならば」


武振熊が答えた。


「斬らずに済むか、確かめるまでだ」


地を蹴る。


武振熊の巨体が、一気に間合いを詰めた。


毒龍が咆哮する。


口の奥に。


毒々しい緑の光が集まる。


「来るぞ!」


徐福が叫ぶ。


次の瞬間。


毒の瘴気が、濁流のように放たれた。


地面が黒く溶ける。


岩が泡立つ。


武振熊は身体を沈め、横へ跳ぶ。


瘴気が肩を掠めた。


毒避けの術が激しく光り。


札の端が一瞬で黒く焦げる。


「長くは保たぬぞ!」


徐福の声が飛ぶ。


武振熊は答えない。


瘴気を避けながら。


そのまま毒龍の懐へ潜り込む。


「せいやぁッ!」


両剣薙刀が唸った。


鋭い斬撃が。


毒龍の前脚を斬り裂く。


黒い血が飛ぶ。


毒龍の咆哮が滝を揺らした。


傷は深い。


鱗を断ち。


肉を抉っている。


朱童が叫ぶ。


「やった!」


だが。


徐福の表情は変わらなかった。


「まだじゃ!」


毒龍の傷口へ。


黒い霧が集まる。


裂けた肉が蠢き。


鱗が再び重なっていく。


瞬く間に。


傷は塞がった。


武振熊が目を見開く。


「再生した……?」


毒龍は低く笑った。


その笑いは。


勝ち誇るものではない。


苦しみから逃げられぬ者の笑いだった。


「黒龍の力は」


「我を、死なせぬ」


腐った翼が大きく羽ばたく。


毒の風が。


四人へ襲いかかった。


「散れ!」


徐福の号令が響く。


武振熊は前へ。


朱童は右へ。


白夜は左へ。


四人は同時に動いた。


救うための戦いが。


始まった。

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