第七話 毒龍
朝は来た。
けれど、山の東にはまだ重い雲がかかっていた。
昨夜の戦いで傷ついた村にも、細い光が差し込んでいる。
村人たちは早くから起き、崩れた家を直し、泥に埋もれた道具を拾い集めていた。
七難はいない。
もう命令する声も、鈴の音も聞こえない。
それでも誰かが手を止めるたび、怯えたように周囲を見回す。
自由になった人間が、すぐ自由に戻れるとは限らない。
身体から鎖が消えても。
心は昨日までの命令を覚えている。
徐福は、村外れの井戸の前に立っていた。
汲み上げた水を木椀へ移し、匂いを確かめる。
見たところ、濁りはない。
だが。
水面へ触れた指先に、微かな痺れが残った。
「やはりのう」
その背後から、欠伸が聞こえた。
「なにが、やはりなんだよ」
朱童だった。
寝癖をつけたまま、片目を擦っている。
その隣には白夜。
昨夜痛めた右足へ布が巻かれているが、歩く分には問題なさそうだった。
最後に武振熊が現れる。
すでに両剣薙刀を背負い、旅支度を整えていた。
「徐福殿」
「昨夜の話か」
「ああ」
徐福は椀の水を地面へ捨てた。
「村人の話では、この先に大きな滝がある」
「あの水に、毒が混じっておるらしい」
朱童が井戸を覗き込む。
「この水も毒なのか?」
「まだ薄い。じゃが、長く飲み続ければ身体を壊す」
白夜は山の方角を見た。
朝霧の奥。
岩肌を割るように、一本の白い滝が遠く見えている。
「滝から流れてきているのですか」
「その可能性が高い」
徐福は杖を手に取った。
「まずは、わしが見てこよう」
即座に武振熊が前へ出る。
「我も行く」
「まだ敵がおるとは決まっておらぬぞ」
「毒の源が獣であれ妖であれ、徐福殿一人を向かわせる理由にはならぬ」
武振熊の返答に迷いはなかった。
徐福が何かを言うより先に、朱童も胸を張った。
「おれも行く!」
白夜も小さく頷く。
「徐福爺だけを行かせるわけにはいきません」
「おぬしらは昨日戦ったばかりじゃろう」
「徐福爺もだろ」
「わしは戦っておらぬ。指示を出しただけじゃ」
「いっぱい吹き飛ばされてたじゃないか」
「見ておったか」
「見えるだろ」
徐福は困ったように眉を下げた。
朱童は笑い。
白夜も、その袖を握りながら微笑んだ。
武振熊だけが真面目な顔で言う。
「諦められよ、徐福殿」
「この二人は止まらぬ」
「武振熊殿まで、そちらへ回るか」
「昨日、仲間となったゆえ」
徐福は三人を見た。
そして、深く息を吐く。
「では、一つだけ約束じゃ」
「勝手に前へ出ぬこと」
朱童が目を逸らした。
「返事は」
「……善処する」
「覚えたての言葉を使うでない」
◇
山道へ入った頃。
朝日はすでに高く昇っていた。
最初のうちは、七難の村を取り囲んでいた森と変わらなかった。
湿った土。
青い苔。
鳥の鳴き声。
だが、一刻も進むと。
森から色が失われ始めた。
木々の葉が、黒く縮れている。
花は茎から腐り落ち。
地面を這う蔓には、不自然な紫色の斑点が浮かんでいた。
「触るな」
徐福が朱童を止める。
ちょうど朱童は、光る茸へ指を伸ばしかけていた。
「見るだけだよ」
「おぬしの見るは、触るの一歩手前じゃ」
「綺麗だったから」
「綺麗な毒ほど、よく人を殺す」
徐福が杖の先で茸を軽く突く。
途端に傘が破れ、黒い粉が噴き出した。
朱童が飛び退く。
「先に言えよ!」
「言ったじゃろう」
川へ近づくと、鼻を刺すような臭いが漂ってきた。
白夜が口元を袖で覆う。
水面には魚が浮かんでいた。
一匹や二匹ではない。
腹を上へ向けた魚が、川を埋め尽くすように流れてくる。
岸辺には、小鹿が倒れていた。
毛は抜け落ち。
身体の一部は、黒く腐っている。
朱童の顔から、いつもの笑みが消えた。
「ひどい……」
白夜は近づこうとしたが。
その肩を徐福が掴んだ。
「これ以上、息を吸うな」
徐福は懐から四枚の白い紙を取り出した。
紙には、異国の文字と日本の古い呪文が重なるように書かれている。
指で印を結び。
低く唱えた。
「東方青気」
「西方白気」
「南方赤気」
「北方黒気」
「中央黄気、身を巡りて禍を退けよ」
四枚の札が宙へ浮かぶ。
一枚ずつ。
武振熊。
朱童。
白夜。
そして徐福の胸元へ貼りついた。
淡い金色の膜が、四人の身体を包む。
腐臭が遠のいた。
喉を焼いていた痛みも消える。
白夜が自分の手を見つめた。
「息が、できる」
「毒避けの術じゃ」
「この程度なら、しばらくは防げる」
武振熊は感嘆したように息を吐いた。
「さすが徐福殿」
「医術だけでなく、これほどの術理にも通じておられるとは」
徐福は髭を撫でる。
「長く旅をしておれば、余計なことばかり覚えるものじゃ」
「余計ではない」
武振熊は真っ直ぐに徐福を見る。
「その智慧に救われる命がある」
「我には振るえぬ力だ」
朱童が間へ割って入る。
「当たり前だろ!」
武振熊が朱童を見る。
「うちの徐福爺はすごいんだぞ!」
白夜も珍しく胸を張った。
「薬も術も、何でも知っています」
「何でもではない」
徐福が苦笑する。
「知らぬことの方が多い」
「でも、知らないこともすぐ調べるだろ」
朱童の言葉に。
徐福は少しだけ目を細めた。
「……そうありたいものじゃな」
四人はさらに上流へ進んだ。
やがて。
道そのものがなくなった。
木々は立ったまま枯れ。
幹には黒い膿のような樹液が流れている。
鳥もいない。
虫さえ飛んでいない。
死んだ森の中を。
滝の音だけが響いていた。
ごうごうと。
何か巨大なものの呼吸のように。
「近い」
武振熊が両剣薙刀へ手をかける。
足元の岩には、深い爪痕が残されていた。
人の腕ほどの太さがある。
白夜がしゃがみ込み、跡へ指を近づける。
「大きい……」
「十二間……いや、それ以上あるかもしれぬ」
徐福の顔が険しくなる。
「村人は、毒龍と申しておった」
朱童は炎を灯しかけた。
「そいつを倒せば、毒は消えるんだろ」
「まだ決めつけるな」
徐福が制する。
「この毒は、龍そのものから生まれたものではない」
「分かるのか?」
「水には龍気が残っておる」
徐福は川へ杖を浸した。
黒く濁った水の下。
ほんの一瞬だけ。
清らかな青い光が見えた。
「本来、この地の水を守っていた龍神じゃ」
「それが何かに侵され、毒を撒く姿へ変えられておる」
白夜が呟く。
「七難と、同じ黒龍の呪い……?」
「おそらくな」
滝へ近づく。
岩壁の向こうに、巨大な滝壺が現れた。
本来ならば白く澄んでいるはずの水が、暗い緑色へ染まっている。
水面から立ち昇る瘴気が。
空まで歪めていた。
そして。
滝の裏側。
巨大な洞穴の中で。
何かが動いた。
最初に見えたのは、翼だった。
蝙蝠のような巨大な翼。
けれど、その一枚だけで家屋を覆えるほど大きい。
次に。
岩の上へ太い前脚が下ろされた。
黒緑色の鱗。
長い鉤爪。
背中には、山の尾根のような棘が並んでいる。
十二メートルを超える巨体が。
ゆっくりと洞穴から這い出した。
西方の伝承に語られる竜のような姿。
四本の脚。
巨大な翼。
蛇のように長い首。
だが、その頭部には。
日本の龍神に似た角と髭が残っていた。
かつての神聖さが。
腐敗した肉体の奥へ、まだ僅かに宿っている。
左目は白く濁り。
首筋には、黒い血管のような呪印が走っていた。
毒龍が息を吐く。
緑色の煙が岩を覆う。
苔が一瞬で黒く変色した。
武振熊が前へ出る。
朱童は右手に炎を集め。
白夜も手印を結びかける。
だが。
徐福が片手を上げ、三人を止めた。
毒龍は四人を見下ろしていた。
濁った瞳の奥に。
獣ではない知性がある。
唇が動いた。
「……また」
声は低く。
滝壺全体を震わせた。
「また、人か」
朱童の炎が揺れる。
毒龍は苦しげに頭を抱えた。
長い鉤爪が、自らの鱗を削る。
「水を求め」
「祈りを捧げ」
「病めば、我を呪う」
狂った笑い声が、滝へ反響する。
「守れと申したのは、お前たちであろう」
「それなのに」
白く濁った目から、黒い涙が流れた。
「なぜ、我を救わなかった」
徐福の表情が変わった。
そこにいたのは。
人を殺す毒の化け物ではない。
病み。
苦しみ。
助けを待ち続け。
ついには祈ることさえ忘れた、一柱の龍神だった。
毒龍が翼を広げる。
空が覆われた。
「帰れ、人よ」
その口元に。
毒々しい緑の光が集まり始める。
「さもなくば――」
滝が逆巻いた。
「我が毒の中で、同じ苦しみを味わえ」
徐福は杖を握り締めた。
朱童と白夜が、その左右へ立つ。
武振熊が前へ出て、両剣薙刀を構えた。
七難とは違う。
これは。
倒すべき悪ではない。
救えなかった神だった。




