第六話 優しき旅人
七難を退けた、その日の夕暮れ。
山の端へ沈みかけた陽が、傷ついた村を赤く照らしていた。
壊れた家。
踏み荒らされた畑。
泥に沈んだ荷車。
七難の呪いは消えた。
けれど、失われた時間までは戻らない。
村人たちは互いの無事を確かめ合いながら、倒れた柱を起こし、散らばった道具を集めていた。
泣く者がいた。
笑う者もいた。
その両方を、同時にしている者もいた。
生きているということは、たぶん。
そういうことなのだろう。
「腹減った」
朱童が言った。
村外れの大きな木の下。
地面へ座り込んだ朱童は、膝を抱えたまま、恨めしそうに自分の腹を見ていた。
七難との戦いで霊力を使い果たしたせいか、いつもの威勢はどこにもない。
「さっきも言っておったな」
徐福が隣へ腰を下ろす。
「さっきより減った」
「腹が減る量は増えぬ」
「増えるんだよ」
「難儀な腹じゃのう」
徐福は懐を探った。
取り出したのは、竹の皮に包まれた二本の団子だった。
朱童の赤い瞳が、途端に輝く。
「それ、どこにあったんだ!」
「旅の途中で食べようと思っておった」
「じゃあ食べよう!」
「わしの分じゃ」
「徐福爺は年寄りなんだから、そんなに食べなくても平気だろ」
「年寄りの食事を奪うでない」
そう言いながらも、徐福は一本を朱童へ差し出した。
朱童は一瞬だけ目を丸くしたあと、勢いよく受け取る。
「いいのか?」
「もう持っておるではないか」
「あ、そうだった」
朱童は団子へかぶりついた。
頬が膨らむ。
ほんの少し前まで、悪鬼を相手に炎を放っていた鬼の童とは思えない。
徐福は自分の団子を眺めた。
それから、半分だけ食べる。
残りを竹の皮へ戻した。
「それも食べないのか?」
「白夜の分じゃ」
「……ずるい」
「なにがじゃ」
「白夜の方が多い気がする」
「同じじゃ」
「絶対ちがう」
徐福は笑った。
疲れの滲んだ、静かな笑顔だった。
少し離れた場所で、白夜は倒れた村人へ水を配っていた。
けれど歩き方がおかしい。
右足を地面につくたび、小さく顔をしかめている。
徐福は立ち上がった。
「白夜」
呼ばれた白夜は振り返り、何事もなかったように微笑んだ。
「どうしました?」
「こちらの台詞じゃ」
徐福が白夜の前へしゃがむ。
「足を見せてみよ」
「平気です」
「平気な者は、右足だけ浮かせて歩かぬ」
白夜は困ったように目を逸らした。
七難の反撃で吹き飛ばされた時、足首を石へ打ちつけていた。
裾を上げると、白い足首が赤く腫れている。
「これで平気とは、随分と強情になったものじゃ」
「朱童ほどではありません」
「おい、聞こえてるぞ!」
木の下から朱童の声が飛んできた。
徐福は小さな薬壺を取り出した。
蓋を開けると、薬草の青い匂いが漂う。
白夜の足首へ、冷たい薬をゆっくりと塗っていく。
「痛むか?」
「少しだけ」
「痛い時は、痛いと言ってよい」
徐福の手つきは優しかった。
傷へ触れる指も。
薬を伸ばす速さも。
怯えた小鳥を扱うように慎重だった。
「我慢ばかり覚えると、自分の痛みが分からなくなる」
白夜は徐福の横顔を見つめた。
深い皺。
海風と長い旅に焼けた肌。
いつも笑っている目元にも、今日は疲れが刻まれている。
「徐福爺も、痛いですか?」
徐福の手が止まった。
「さて。どこのことじゃろうな」
「いっぱい」
白夜は言った。
徐福は少し驚き。
それから、穏やかに笑った。
「ならば、お互い様じゃ」
治療を終えた徐福は、白夜へ背中を向けた。
「乗りなさい」
「歩けます」
「歩けることと、歩いてよいことは別じゃ」
「でも」
「早うせぬと、朱童に団子を食われるぞ」
白夜は振り返る。
朱童が竹の皮へ手を伸ばそうとしていた。
「朱童」
「見てただけだ!」
白夜は慌てて徐福の背中へ乗った。
細い腕が首へ回る。
徐福は杖を支えに、ゆっくりと立ち上がった。
「重くありませんか?」
「羽根よりは重い」
「降ります」
「冗談じゃ。子供はもう少し、冗談を覚えよ」
「徐福爺の冗談は、分かりにくいです」
「朱童にも言われた」
「オレは言ってないぞ」
「顔に書いてある」
三人のやり取りを見ていた武振熊が、低く笑った。
両剣薙刀を肩へ担ぎ、村人たちが運ぶ材木を一人で持ち上げている。
その姿に気づいた徐福は、白夜を背負ったまま近づいた。
「武振熊殿」
「どうされた、徐福殿」
「此度の戦い、見事であった」
武振熊は材木を地面へ置く。
「我一人の力ではない」
「無論じゃ」
徐福は笑った。
「じゃが、火と氷。相反する二つの術を、己の霊力で一つへ結んだ」
「あれは、おぬしの武があってこそ成ったもの」
朱童が得意げに胸を張る。
「おれの炎が一番すごかったけどな!」
「白夜の氷もじゃ」
「分かってるよ」
武振熊は双子を見た。
それから、両剣薙刀を静かに見下ろす。
「我は、命を受けて戦ってきた」
「だが、今日の一撃は命令では放てなかった」
「二人が力を預けてくれたからこそ、振るえた刃だ」
武振熊は双子へ頭を下げた。
「朱童。白夜」
「感謝する」
朱童は照れたように鼻を擦った。
「まあ、次も貸してやってもいいぞ」
「朱童のものだけではありません」
「分かってるって」
徐福は三人を見つめていた。
その目には、誇らしさがあった。
そして、ほんの少しだけ。
何かを眩しがるような寂しさがあった。
◇
その夜。
四人は、村人から借りた小さな家で休んでいた。
朱童は布団へ入るなり眠った。
大の字になり、口を開けている。
白夜はその隣で丸くなり、朱童の袖を掴んだまま眠っていた。
徐福はそっと二人へ布団を掛け直した。
朱童の角に布が引っかからないように。
白夜の痛めた足へ重みがかからないように。
一つ一つ、確かめながら。
「騒がしい時は鬼じゃが」
小さく呟く。
「眠れば、ただの童じゃのう」
武振熊は戸口へ背を預け、その様子を見ていた。
「大切にしておられるのだな」
「当然じゃ」
徐福は迷わず答えた。
双子の寝顔を見つめる。
「この子らは、いずれ日本の英雄となる」
「人と鬼の間に立ち」
「わしらには作れぬ明日の国を、支えてくれる」
徐福の声には、疑いがなかった。
信じていた。
心の底から。
朱童と白夜が大人になり。
人々に受け入れられ。
この国の未来を築いていくことを。
「その日を見届けたいものじゃ」
徐福は、優しくも疲れた笑顔を見せた。
その言葉の奥にある小さな願いを。
この時はまだ、誰も恐れなかった。
その時。
家の外から、慌ただしい足音が聞こえた。
「徐福様!」
戸が叩かれる。
武振熊が立ち上がり、戸を開いた。
そこには村の男が一人、息を切らして立っていた。
「どうした」
「あの……この村から少し離れた山に、大きな滝があるんですが」
男の顔は青ざめていた。
「滝の水に、毒が混じっております」
徐福の表情が変わる。
「毒?」
「はい。水を飲んだ獣が倒れ、川の魚も浮かんでおります」
男は震える指で、闇に沈んだ山の方角を指した。
「昔から、滝の奥には毒龍が棲むと伝えられていて……」
風が吹いた。
遠くから。
滝の轟音が、夜の山を渡ってくる。
徐福は眠る双子を見た。
朱童は白夜の手を握り。
白夜も、その手を離していない。
徐福は二人へ掛けた布団の端を、もう一度だけ整えた。
「今夜は、眠らせてやろう」
杖を手に取る。
優しい旅人の顔から。
古代の道士の目へ戻る。
「話を聞かせてもらおうか」
遠い山の闇で。
滝の水面が、毒々しい緑色に揺れた。




