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NOESISーノエシスー  作者: 月乃瀬
第四章 ー双生陰陽師編ー
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第五話 火氷双刃

七難の腹が、ゆっくりと脈打った。


朱童の炎。


白夜の氷。


武振熊の霊力。


三つの力が皮膚の下を走り、赤と青の光が濁りながら混ざり合っている。


それでも七難は笑っていた。


苦しそうに。


けれど、愉快そうに。


長い舌に刻まれた七つの呪印が、再び黒く灯る。


「力を重ねれば、わしを倒せると思うたか」


七難の声が、村全体へ染み込んだ。


耳からではない。


胸の奥へ直接入り込み、触れられたくない場所を探る声だった。


七難の瞳が、朱童を捉える。


「朱童」


名を呼ばれた瞬間。


朱童の身体が止まった。


「威勢のよい鬼の童よ」


「お前は人を守るために戦っておるつもりか」


七難の背後にある瘤が、一つ口を開く。


そこから響いたのは、朱童自身の声だった。


――鬼だからなんだ。


――オレは悪くない。


――オレは誰より強い。


「違うな」


七難は笑う。


「お前は恐れておる」


「いつか、人間どもがお前を化け物と呼ぶことを」


朱童の炎が揺らいだ。


「黙れ」


「どれほど人を救おうと、角を見れば怯える」


「怒れば鬼と言われ」


「力を使えば、やはり化け物だと囁かれる」


朱童の拳が震える。


炎が赤から黒へ濁りかけた。


「黙れって言ってるだろ!」


七難の笑みが深くなる。


怒り。


それこそが、七難の好む味だった。


その時。


白夜が朱童の袖を掴んだ。


「朱童」


たった一言。


それだけで、朱童の炎がわずかに戻る。


白夜は七難を睨んだ。


「朱童は、化け物ではありません」


「ほう」


七難の視線が白夜へ移る。


「では、お前はどうだ。白き鬼の娘」


白夜の肩が強張った。


七つの瘤の一つが泣き始める。


赤子のような。


遠い山の獣のような。


ひどく寂しい声だった。


「お前は知っておる」


「朱童がいなければ、自分は何もできぬと」


白夜の青い瞳が揺れる。


「いつも朱童の後ろに隠れ」


「徐福に守られ」


「誰かが手を引いてくれなければ、前へ進めぬ」


「違います」


白夜は否定した。


だが、声は小さかった。


「本当に?」


七難の舌が地面を這う。


「朱童がいなくなったら」


「徐福がいなくなったら」


「お前は一人で立てるのか」


白夜の周囲に集まっていた冷気が消える。


脳裏に、誰もいない山道が浮かんだ。


朱童のいない場所。


徐福の声が聞こえない場所。


白夜は息ができなくなった。


その手を、今度は朱童が握った。


「いるよ」


白夜が顔を上げる。


「オレはここにいる」


朱童は七難を見たまま言った。


「いなくなるかどうかを、勝手に決めんな」


白夜は少しだけ笑った。


そして、朱童の手を握り返した。


七難の表情が歪む。


「くだらぬ」


次に、その視線が武振熊へ向いた。


「大王に仕える武人よ」


武振熊は両剣薙刀を構えたまま、動かない。


「お前は命に忠実だ」


「命じられれば山を越え」


「命じられれば人を斬る」


「それを忠義と呼び、自ら考えることから逃げておる」


武振熊の眉が動く。


七難は続ける。


「この鬼の童らも、いずれ大王が討てと命じれば斬るのであろう?」


朱童と白夜が武振熊を見る。


ほんの一瞬。


武振熊は答えなかった。


七難はその沈黙を逃さない。


「ほれ」


「英雄など、その程度のものよ」


「命令が変われば、味方も敵となる」


武振熊は目を閉じた。


そして、静かに息を吐いた。


「確かに」


低い声だった。


「我は大王の命を受け、ここへ来た」


七難が嗤う。


「だが」


武振熊の目が開く。


「目の前で苦しむ者を救うのは、命じられたからではない」


両剣薙刀の刃が、泥を擦った。


「我が、そうしたいと思うからだ」


七難の笑みが消えた。


最後に。


その瞳が徐福へ向いた。


「そして、徐福」


村の空気が変わった。


七難の声から、嘲りが消える。


代わりに、粘つくような甘さが混じった。


「海を越えた知恵者」


「薬を与え」


「鉄を伝え」


「多くの者を救った」


「だが、お前も知っておるはずだ」


徐福は杖を握る。


七難の舌にある七つの呪印が、一斉に徐福を向いた。


「どれほど知恵を集めようと」


「どれほど人を救おうと」


「お前は老いる」


徐福の指が、わずかに動く。


「やがて死ぬ」


「お前が積み上げた知恵も」


「お前が守った者たちも」


「お前の手を離れ、失われていく」


七難は、徐福だけへ聞こえるように囁いた。


「惜しくはないか」


「もっと生きたいとは、思わぬか」


沈黙。


朱童が徐福を見る。


白夜も。


武振熊も。


徐福は目を伏せた。


否定の言葉は、すぐには出なかった。


人の命は短い。


知識を得るには、あまりにも短い。


救いたい者は尽きず。


伝えたいことも尽きない。


そのすべてを残したまま、死なねばならぬ。


徐福は。


確かに、それを恐れていた。


「……思うとも」


朱童が息を呑む。


七難の口元が吊り上がる。


徐福は続けた。


「もっと生きたい」


「まだ見ぬ地を歩き」


「まだ知らぬ知恵を学び」


「この子らが大人になる姿も見たい」


七難の目が輝く。


「ならば――」


「じゃが」


徐福は顔を上げた。


その目は、静かだった。


「生きたいと願うことと」


「他者の苦しみを踏み台にして生きることは、同じではない」


杖が泥を打つ。


澄んだ音が響いた。


「わしの恐れは、わしのものじゃ」


「おぬしに喰わせるものではない」


七難の顔が歪んだ。


「黙れ!」


紫色の呪力が爆発する。


七つの瘤が叫び、村人たちが再び頭を抱えた。


七難の腹の口が開く。


朱童の火。


白夜の氷。


武振熊の霊力。


吸い込んだすべてを吐き返そうと、赤と青の光が集まり始める。


「徐福殿!」


武振熊が叫ぶ。


徐福は七難の腹を見据えた。


大きく膨らんでいる。


皮膚の内側で、三つの力が互いを拒絶し、暴れていた。


「奴は力を消しておらぬ!」


徐福が叫ぶ。


「喰らった力を、腹の中で無理に押さえ込んでおる!」


朱童が拳へ火を灯す。


「なら、もっと食わせるのか!」


「違う!」


徐福の視線が、武振熊の両剣薙刀へ向く。


左右へ伸びる、二つの刃。


「武振熊!」


「刃を構えよ!」


武振熊は両剣薙刀を水平に構えた。


「朱童!」


「右の刃へ火を!」


朱童が両手を結ぶ。


赤い呪符が舞い上がった。


「火行――炎宿!」


炎が渦を巻き、右の刃へ纏わりつく。


金属が赤く灼ける。


「白夜!」


「左の刃へ氷を!」


白夜も手印を結ぶ。


「水行――氷宿!」


青白い冷気が走る。


左の刃が、澄んだ氷で覆われた。


片方は炎。


片方は氷。


本来ならば、互いを打ち消す力。


両剣薙刀が激しく震える。


武振熊の腕から血が滲んだ。


「徐福殿!」


「このままでは、武器が保たぬ!」


「霊力で繋ぐのじゃ!」


徐福が杖を掲げる。


「火と氷を混ぜるな!」


「二つのまま、一つの刃として扱え!」


武振熊は目を閉じた。


両腕から、黄金の霊力が溢れる。


それは柄を通り。


右の炎と。


左の氷を。


一つの円環へ結びつけた。


炎は氷を溶かさない。


氷は炎を消さない。


互いに反発しながら。


互いを押し上げる。


七難の顔に、初めて恐怖が浮かんだ。


「やめろ」


徐福が叫ぶ。


「今じゃ!」


武振熊が踏み込んだ。


朱童の炎が吼える。


白夜の氷が鳴く。


両剣薙刀が、赤と青の輪を描いた。


「火氷双刃――」


武振熊の全身から霊力が爆発する。


「陰陽破斬!」


振り抜かれた。


火と氷。


相反する二つの力が、七難の腹へ同時に叩き込まれる。


七難は口を開く。


喰らおうとする。


だが、できない。


火を呑み込めば、氷が内側から固める。


氷を呑み込めば、炎が内側から焼き尽くす。


二つの力は互いを打ち消さず。


七難の腹の中で、果てなく膨張した。


「や、め――」


亀裂。


七難の腹に、赤と青の線が走る。


次の瞬間。


腹が裂けた。


光が、内側から溢れ出す。


七つの瘤が一斉に叫ぶ。


舌の呪印が一つずつ砕けていく。


病。


貧。


欺。


孤。


恐。


絶。


業。


最後の印が砕けた時。


七難の巨体は、黒い灰となって崩れ始めた。


「黒龍……さま……」


七難は、誰もいない空へ手を伸ばす。


「たす……け……て……」


答えはない。


黒龍は。


自らに捧げられる苦しみを求めても。


手先を救うことなど、決してしなかった。


七難の身体は完全に崩れ。


泥の上へ、黒い鱗を一枚残して消えた。


静寂。


村人たちの首や腕に刻まれていた呪印が薄れていく。


一人。


また一人。


黒く染まっていた瞳に、光が戻った。


だが。


誰もすぐには立ち上がれなかった。


鎖は消えた。


それでも、心に染みついた恐怖までは消えない。


「働かなければ」


一人の男が呟いた。


「休んだら、借りが増える」


白夜が、その前にしゃがむ。


「もう、増えません」


「でも……」


「七難は、いません」


白夜は男の震える手を、両手で包んだ。


「今日は、休んでいいんです」


男の目から。


ゆっくりと涙がこぼれた。


朱童は倒れた荷をどかし。


武振熊は崩れた家の柱を起こす。


徐福は傷ついた者たちへ薬を配った。


やがて。


村人たちは四人の前へ集まった。


一人の老人が、震える膝を泥につける。


両手を合わせ。


深く頭を下げた。


それに続き。


村人たちが次々に手を合わせる。


朱童は落ち着かない様子で、徐福を見た。


「なんで拝むんだよ」


「感謝しておるのじゃ」


「オレ、神様じゃないぞ」


「知っておる」


「なら言えよ」


白夜が、くすりと笑う。


老人は顔を上げた。


涙と泥で汚れた顔だった。


けれど。


その瞳には、わずかな光が戻っていた。


「この恩は」


声が震える。


「決して、忘れねぇだ」


武振熊は静かに頭を下げた。


徐福も。


白夜も、それに倣う。


最後に朱童が、照れくさそうに頭を掻いた。


「忘れなくてもいいけどさ」


朱童は村人たちを見る。


「もう二度と、あんな奴の言うことを信じるなよ」


老人は泣きながら笑った。


山の雲が切れる。


細い光が。


長く閉ざされていた村へ、初めて差し込んだ。


そして誰にも気づかれぬまま。


泥に残された黒龍の鱗が。


一度だけ。


心臓のように脈打った。

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