第三話 七難
朝の山には、まだ夜が残っていた。
陽は昇っている。
けれど深い森の底までは届かない。
木々の間を白い霧が流れ、濡れた土の匂いが静かに立ち上っている。
武振熊は、山の向こうを見ていた。
大きな背中。
その傍らには、長大な両剣薙刀が地面へ突き立てられている。
朱童は岩の上に座り、昨日もらった団子の残りを食べていた。
白夜は徐福の隣で、薬草を小さな籠へ分けている。
「話がある」
武振熊の声が、朝の静けさを揺らした。
朱童が団子を咥えたまま振り返る。
「なんだよ」
武振熊は遠くに連なる山々を指した。
「あの山の中腹に、小さな村がある」
霧の向こう。
黒い山影の中に、わずかに煙が見える。
炊煙ではない。
細く、弱々しく。
今にも消えそうな煙だった。
「その村で、妖が暴れ回っておるそうだ」
朱童の目が輝く。
「妖?」
「名を、七難という」
その名を聞いた瞬間。
徐福の指が止まった。
ほんの一瞬だった。
だが、白夜はそれを見逃さなかった。
「七難……」
徐福は小さく呟く。
その声には、懐かしさではなく。
知ってはならぬものを知っていた者の、重さがあった。
武振熊が徐福へ向き直る。
「村から逃げてきた者の話では、人を攫い、朝から晩まで働かせているらしい」
「攫うだけではない」
徐福は薬草を籠へ戻した。
「七難は、人の弱みにつけ込む妖じゃ」
朱童は団子を飲み込む。
「弱み?」
「腹を空かせた者には飯を与える」
「病に苦しむ者には薬を渡す」
「行くところのない者には、寝床を与える」
白夜が顔を上げた。
「それなら……悪い妖ではないのでは?」
徐福は首を横に振る。
「与えたものすべてに、代価を求める」
「しかも、決して払い終えることのできぬ代価をな」
武振熊は低く唸った。
「逃げた者は皆、同じことを申していた」
「七難様に助けていただいた」
「働くのは当然だ」
「自分が苦しいのは、自分の働きが足りぬからだ、と」
朱童の眉が寄る。
「なんだ、それ」
「騙されてるじゃないか」
「ああ」
武振熊は頷く。
「だが、騙されている者ほど、自分が騙されているとは認めぬ」
それは剣より厄介な鎖だった。
鉄ならば断てる。
縄ならば焼ける。
だが、心に巻きついた鎖は目には見えない。
武振熊は徐福を見た。
「徐福よ」
「朱童と白夜を連れていっても構わぬか?」
朱童が岩から飛び降りた。
「七難だと!」
「おれの術で、あっという間にぶっ飛ばしてやるよ!」
「まだ許しを出しておらぬ」
武振熊が言う。
「なんだよ。おれたちに力を貸してくれって言ったのは、お前だろ」
「力を借りたいと言った」
「勝手に飛び出してよいとは言っておらぬ」
「細かいな!」
朱童が頬を膨らませる。
徐福は二人を見ながら、静かに立ち上がった。
「わしも行こう」
武振熊が眉を上げる。
「徐福殿も?」
「七難は、ただ斬ればよい妖ではない」
「それに」
徐福は白夜を見る。
「この子らだけを行かせるわけにはいかぬからの」
白夜は少し考えたあと、朱童の袖を摘んだ。
「怖くないかなぁ」
「怖いなら残ってろ」
朱童はそう言ったが、声が少しだけ柔らかかった。
白夜は朱童の横顔を見る。
「朱童が行くなら、仕方ないな」
それから徐福へ視線を移す。
「徐福爺もついてるし」
「爺ではない」
「爺だろ」
「まだ仙人の歳じゃ」
「もっと爺じゃないか」
武振熊は大きなため息を吐いた。
こうして。
四人は、七難の棲む山へ向かうこととなった。
◇
山道を進むほど、空気が重くなっていった。
鳥は鳴かない。
虫の音もない。
木々の葉は青々としているのに、森全体が死んでいるようだった。
やがて、道の脇に壊れた荷車が見えた。
車輪は外れ、泥の中に沈んでいる。
その傍らに、一人の男が倒れていた。
白夜が駆け寄る。
「大丈夫ですか?」
男は痩せていた。
頬はこけ、手足は骨のように細い。
背中には重い荷を背負った跡が、赤黒く残っている。
白夜が肩へ触れようとした瞬間。
男は怯えたように身を縮めた。
「す、すみません」
「休んでいたわけではないのです」
「すぐに戻りますから」
武振熊が膝をつく。
「誰に謝っておる」
男は答えない。
ただ何度も頭を下げた。
「七難様に、返さなければ」
「飯をいただいた」
「薬もいただいた」
「だから働かなければ」
「いつまでだ」
武振熊が問う。
男の唇が震える。
「借りを、返し終えるまで」
「いくら残っておる」
「分かりません」
「昨日より増えました」
朱童の拳が握られた。
「ふざけるな」
「そんなの、返せるわけないだろ」
男は朱童を見た。
その目には怒りではなく、恐怖だけがあった。
「七難様を悪く言わないでください」
「七難様がいなければ、我々は死んでいた」
徐福は男の首筋を見た。
そこには、黒い舌のような印が巻きついていた。
細長い紋様。
脈打つたびに、微かに蠢いている。
「契りの印じゃ」
徐福が呟く。
「七難に言葉を縛られておる」
白夜は男の前にしゃがんだ。
「村は、この先ですか?」
男は俯いたまま、震える指で山の奥を示した。
◇
村へ近づくにつれ。
音が聞こえてきた。
金属を打つ音。
石を砕く音。
誰かの咳。
誰かの呻き声。
けれど。
話し声はなかった。
村へ入った朱童は、足を止めた。
家々は壊れかけていた。
畑は荒れ、井戸の水は濁っている。
痩せた人々が、背中に黒い石を積み、山の奥から運び続けていた。
老人も。
女も。
まだ幼い子供まで。
誰一人、顔を上げない。
ただ同じ道を歩き。
同じ場所へ石を置き。
また山へ戻っていく。
白夜が小さく息を呑んだ。
「どうして……」
道端に、一人の子供が座り込んでいた。
手のひらは破れ、血が滲んでいる。
それでも子供は立ち上がろうとしていた。
白夜が駆け寄る。
「もう休んで」
「休めない」
「でも、その手では」
「休んだら、借りが増える」
子供は泣いていなかった。
泣く力すら残っていなかった。
朱童は周囲を見渡す。
「シチナはどこだ」
誰も答えない。
「おい!」
「どこにいる!」
その時。
村の奥から、鈴の音がした。
しゃらん。
しゃらん。
人々の身体が一斉に震えた。
石を落とした老人が、慌てて地面へ這いつくばる。
女たちは道の両端へ退き、頭を下げた。
朱童たちの前に。
大きな影が現れた。
最初に見えたのは、腹だった。
異様に膨れ上がった、暗い赤紫色の腹。
次に、黒と紫の派手な衣。
首には銭、数珠、歯、骨、護符。
奪ったものすべてを、飾りとして身につけている。
背中には七つの瘤。
その一つ一つに、人の顔が浮かび。
苦しげに口を開いていた。
そして。
口から垂れ下がる、長い舌。
舌には、七つの黒い呪印。
病。
飢え。
貧しさ。
孤独。
恐れ。
怒り。
絶望。
妖は、笑っていた。
人を救う慈悲深い者のように。
「これはこれは」
七難は、朱童と白夜を見下ろした。
「ほう」
「噂の鬼の双子とは、お前たちか」
長い舌が、ぬらりと地面を這う。
朱童の足元に、赤い呪力が灯った。
「お前が七難か」
「村のみんなを放せ!」
七難は腹を揺らして笑う。
「放す?」
「この者どもは、自ら望んで働いておるのだぞ」
「飯を与えた」
「薬を与えた」
「寝床まで与えた」
「ならば、その恩を返すのが道理であろう?」
武振熊が両剣薙刀へ手をかける。
「恩を返させるために、死ぬまで働かせるか」
「死なせてはおらぬ」
七難の笑みが深くなる。
「死んでは、苦しみを集められぬからな」
その言葉に、徐福の表情から温度が消えた。
「七難」
低い声だった。
いつもの穏やかな老人の声ではない。
海を越え。
幾つもの国を見て。
人の生と死を知り尽くした術者の声だった。
「黒龍に、人の苦しみを捧げておるな」
七難の舌が止まる。
「……さすがは徐福」
「異国の知恵者を名乗るだけはある」
「ならば知っておろう」
七難は背後の七つの瘤を蠢かせた。
「人は苦しむほど、美しい力を生む」
「恐れ」
「怒り」
「憎しみ」
「絶望」
「黒龍様は、それらを何より好まれる」
徐福は杖を地面へ突いた。
「人の苦しみを糧とするものを、神とは呼ばぬ」
「ただの禍じゃ」
七難の目が細くなる。
「その禍に逆らうか」
「逆らうのではない」
徐福は朱童と白夜の前へ、一歩出た。
「祓うのじゃ」
朱童が徐福を見上げる。
白夜は杖を握る徐福の手が、わずかに震えていることに気づいた。
恐れているのではない。
怒っているのだ。
人を救うために海を越えてきた男が。
人の苦しみを集める妖を、心の底から憎んでいる。
七難は、しばらく徐福を見つめていた。
やがて、愉快そうに笑った。
「よかろう」
「ならば見せてみよ」
「人というものが、本当に救う価値のある生き物なのかを」
背後の村人たちが、一斉に顔を上げた。
その瞳は。
すべて、黒く染まっていた。
七難は愉快そうに腹を揺らした。
「よろしい」
「では、お見せしましょう」
「人というものが、どれほど自ら苦しみを望む生き物であるかを」
背後の村人たちが、一斉に顔を上げた。
その瞳は。
すべて、黒く染まっていた。




