第二話 武振熊
山は、来る者を選ばない。
ただ、帰る者だけを選ぶ。
飛騨の山道は朝から霧に沈み、道と呼べるものさえ白く呑み込んでいた。
鳥の声はない。
獣の気配もない。
あるのは、土を踏み締める重い足音だけだった。
一歩。
また一歩。
霧の中から現れた男は、山そのもののように大きかった。
肩には黒い獣皮。
腰には、身の丈ほどある両剣薙刀。
胸板は分厚く、腕は丸太のようで、顔には古い傷が幾筋も走っている。
名を、武振熊という。
大王の命を受け、各地の禍を討つ武人である。
その歩みが、ふと止まった。
山道の中央に、小さな影が二つあった。
一人は、赤みを帯びた髪の少年。
もう一人は、雪のような髪をした少女。
二人の額には、短い角が生えている。
少年――朱童は、串に刺さった団子を頬張っていた。
少女――白夜は、その隣で一つの団子を両手に持ち、静かに武振熊を見上げている。
先に口を開いたのは朱童だった。
「でかいな」
武振熊は眉を動かした。
「……それはこちらの台詞だ」
「どこがだよ」
「態度がだ」
朱童が団子を噛んだ。
白夜は何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ朱童の袖を掴んだ。
その仕草に、武振熊は目を細める。
鬼。
それも二人。
だが、禍々しさはない。
むしろ妙だった。
角があるだけで、あまりにも子供じみている。
その時、少し離れた庵の戸が開いた。
「おお、来たか」
白い衣をまとった老人が、杖をついて姿を現す。
徐福だった。
武振熊はすぐに姿勢を正した。
「徐福殿」
「遠路ご苦労じゃったな、武振熊殿」
徐福は穏やかに笑った。
その笑みには、海を越えてきた者だけが持つ、どこにも属さぬ静けさがあった。
武振熊は大王のもとで、幾度も徐福の名を耳にしていた。
異国より渡り、薬をもたらした。
鉄を伝えた。
星を読み、暦を整え、疫病の村を救った。
山を拓き、水を引き、言葉さえ通じぬ民の中へ一人で入った。
誰もが徐福を知恵者と呼んだ。
ある者は仙人と呼び、ある者は神の使いと呼んだ。
武振熊は、そのどちらも信じていない。
ただし、功績だけは疑いようがなかった。
「大王より、黒龍を討てとの命を受けております」
武振熊は低く言った。
「人の怨みと欲を喰らい、各地に禍を起こす悪しきもの。されど、その姿も居所も知れぬ」
「知れぬものを討つ。武人にはつらい役目じゃな」
「斬れぬものほど、厄介な敵はござらぬ」
徐福は、ほほ、と笑った。
「そこで、飛騨にいるという双生の呪術師の力を借りよと」
武振熊は周囲を見回す。
「その者らは、どこに?」
徐福は何も言わず、朱童と白夜を見た。
武振熊も、二人を見る。
朱童は最後の団子を口に入れた。
白夜はまだ半分も食べていない。
沈黙。
霧が流れる。
武振熊は、もう一度二人を見た。
それから徐福へ視線を戻す。
「……徐福殿」
「なんじゃ」
「まさかとは思うが」
「うむ」
「この童らが?」
「そうじゃ」
武振熊は目を閉じた。
間違いであってほしいと願うような顔だった。
「本当に、このような子供で大丈夫なのか」
朱童の眉が跳ねた。
「聞こえてるぞ」
「しかも、鬼の子ではないか」
「それも聞こえてる!」
朱童が立ち上がる。
白夜が袖を掴むが、今度は少し遅かった。
朱童は武振熊へ歩み寄り、正面から睨み上げた。
もっとも、身長差がありすぎて、睨むというより見上げているだけに見える。
「鬼だからなんだ」
「鬼であることは事実だ」
「だから悪いってのか」
「悪いとは言っておらぬ」
「顔に書いてある!」
「これは生まれつきの顔だ」
白夜が小さく吹き出した。
武振熊がそちらを見る。
白夜はすぐに真顔へ戻った。
徐福は肩を震わせている。
朱童だけが怒っていた。
「笑うな、徐福!」
「いやいや、すまんのう」
「わしは真面目に申している」
武振熊は徐福へ向き直る。
「黒龍は、大王が軍を動かすほどの禍。その戦いへ、このような童を連れていくのか」
その言葉には、侮りだけではないものがあった。
朱童も、それに気づいた。
武振熊は子供だから信じていないのではない。
子供だから、戦わせることを疑っている。
それでも朱童は拳を握った。
「オレたちは守られるだけじゃない」
「誰も守られるなとは言っておらぬ」
「なら、確かめろ」
朱童が地を蹴った。
速い。
子供の踏み込みではない。
土が弾け、赤い影が武振熊の懐へ飛び込む。
拳が腹へ突き出される。
武振熊は避けなかった。
片手で、その拳を受け止める。
轟音。
霧が左右へ割れた。
武振熊の足元の地面に、ひびが走る。
だが、男は一歩も動かない。
朱童は目を見開いた。
武振熊もまた、わずかに目を見開いていた。
小さな拳。
その内側に、人ならざる力がある。
荒々しく、熱く、未熟。
けれど、決して濁ってはいない。
「なるほど」
武振熊が呟く。
「何がだ!」
「小さいが、軽くはない」
「誰が小さい!」
朱童がもう片方の拳を振り上げる。
その前に、白夜が後ろから朱童の帯を引いた。
「朱童」
「止めるな、白夜!」
「団子、落ちた」
「えっ」
朱童は足元を見る。
最後の一つが、土の上に転がっていた。
世界の終わりを見たような顔になった。
徐福が深くため息をつく。
「ほれ。だから食べながら喧嘩をするなと言ったじゃろう」
「徐福のせいだ!」
「なぜじゃ」
武振熊は、しばらく黙っていた。
やがて朱童の拳を放す。
「先ほどの言葉は、半分撤回しよう」
「半分?」
「力は認める。だが心は童だ」
「やっぱり馬鹿にしてるだろ!」
「事実を申したまでだ」
また朱童が飛びかかろうとする。
白夜が帯を離さない。
徐福は笑っていた。
その光景は、奇妙なほど穏やかだった。
黒龍という名の禍。
国を呑むかもしれぬ闇。
その討伐を語るには、あまりにも呑気で。
だからこそ、武振熊は思った。
もしかすると。
この者たちならば、闇の中でも笑っていられるのではないかと。
「朱童。白夜」
武振熊は、二人の名を呼んだ。
「大王の命により、我は黒龍を追う」
朱童が顔を上げる。
白夜も静かに見つめる。
「徐福殿が、そなたらの力を保証するというならば、我もそれを信じよう」
武振熊は頭を下げた。
武人として。
一人の協力者へ礼を示すように。
「黒龍を討つため、力を貸してほしい」
朱童は目を瞬いた。
先ほどまで子供扱いしていた大男が、自分たちに頭を下げている。
どう答えればいいのかわからず、徐福を見る。
徐福は何も言わない。
ただ、微笑んでいる。
白夜が先に答えた。
「困っている人が、いるのですか」
「ああ」
「なら、行きます」
朱童は白夜を見る。
それから、武振熊を見た。
「オレも行く」
「そうか」
「でも一つだけ言っとく」
朱童は胸を張った。
「オレたちは、お前の手下じゃないからな」
武振熊の口元が、わずかに緩む。
「無論だ」
「それと、団子を弁償しろ」
「それは断る」
「なんでだ!」
山に、朱童の声が響いた。
霧の奥で、何かが蠢いた。
人の欲を嗅ぎつけるように。
人の苦しみを待ちわびるように。
黒い鱗が一枚。
濡れた土の上で、誰にも気づかれぬまま、静かに光っていた。




