第十九話 戈を止める者
ぴしり。
夜空に。
亀裂が走った。
八王子の街を覆っていた四神結界。
東の青龍が薄れ。
西の白虎が霧散し。
南の朱雀から炎が失われ。
北の玄武を形作る甲羅が、音を立てて崩れていく。
「……あかん」
安倍天明は、片膝をついたまま空を見上げた。
結界を構成する紫紺の術式が。
一つ。
また一つと消えていく。
「もう、もたへんで……!」
その声を合図にしたように。
轟音。
千の坂東武者が、内側から一斉に武器を叩きつけた。
槍。
太刀。
薙刀。
無数の矢。
千人分の怨念が、一点へ集中する。
結界が大きく歪んだ。
そして。
砕けた。
紫色の破片が、夜空へ舞い上がる。
閉じ込められていた坂東武者たちが、濁流のように外へ溢れ出した。
現代の八王子。
その姿を写した、死者だけの街へ。
千年前の軍勢が解き放たれる。
武者たちは雄叫びを上げた。
王のもとへ。
平将門のもとへ。
死してなお従うべき主君を守るため。
千の兵が、崩れた街を進んでいく。
「最悪のタイミングやな……!」
天明は立ち上がろうとした。
だが。
足に力が入らない。
四神結界。
四神咆哮。
千の怨霊を相手に、あまりにも多くの霊力を使いすぎた。
「天城ちゃん……!」
天明は顔を上げる。
その視線の先。
崩壊したビルの屋上に。
二人の武人が立っていた。
天城煌。
白いコートは裂け。
片方の袖は失われている。
額から血が流れ。
草薙剣を握る右手も、細かく震えていた。
対する平将門も。
大鎧は砕け。
兜の角は折れ。
黒い霊気を絶え間なく噴き出している。
それでも。
両者の眼から。
戦意は失われていなかった。
煌は、荒い呼吸を整えた。
「そろそろ」
草薙剣を正眼に構える。
「決着をつけなければな」
将門が笑う。
「ようやく、その気になったか」
巨大な太刀を構える。
「来い」
「貴様のすべてを、余に見せよ!」
煌が踏み込んだ。
将門も同時に大地を蹴る。
白と黒。
二つの影が。
一直線に激突した。
草薙剣が振り下ろされる。
将門の太刀が、それを受ける。
火花。
二人の足元から。
ビルの屋上が崩れ始める。
将門が太刀を押し返した。
煌は身体を回転させ。
その勢いのまま、草薙剣を横薙ぎに振るう。
だが。
将門が身を沈めた。
刃は、兜の先をわずかに掠める。
空を切った草薙剣。
そこから放たれた白い斬撃が。
将門の背後へ抜けた。
その先には。
結界を破り。
こちらへ向かってくる坂東武者たちがいた。
千の兵。
将門に付き従い。
将門とともに敗れ。
将門とともに怨霊となった者たち。
白い斬撃が。
その軍勢へ迫る。
煌の眼が見開かれた。
「――しまった!」
草薙剣の斬撃は。
放たれた後では止められない。
神話の剣から放たれた一撃。
直撃すれば。
数百の怨霊が、一瞬で消し飛ぶ。
そのとき。
将門が動いた。
太刀を捨て。
自ら。
斬撃の前へ飛び込んだ。
白い光が。
将門の身体を貫く。
轟音。
朱色の大鎧が砕け散った。
将門の巨体が吹き飛び。
道路へ何度も叩きつけられる。
一度。
二度。
三度。
最後には。
崩れた交差点の中央へ倒れ込んだ。
「将門……!」
煌は屋上から飛び降りる。
地面へ着地し。
倒れた将門のもとへ駆け寄った。
鎧は。
胸元から大きく裂けていた。
身体を形作る黒い霊気も。
傷口から絶え間なく流れ出している。
それでも。
将門は立ち上がろうとした。
片膝をつき。
砕けた鎧へ手を添える。
その背後では。
坂東武者たちが足を止めていた。
王が。
自分たちを庇った。
その意味を理解したように。
千の怨霊が、静まり返っている。
将門は息を吐いた。
「我が民を」
低い声。
「我がもののふを」
血のような黒い霊気が。
口元から流れ落ちる。
「傷つけさせはせぬ」
煌は草薙剣を下ろした。
「なぜだ」
将門が煌を見る。
「お前は、俺の一族を滅ぼした」
煌の声が震える。
怒りではない。
理解できないものを。
理解しようとする声だった。
「草薙剣を奪うために」
「天城家の者たちを殺した」
「それなのに」
煌は将門の背後に立つ軍勢へ目を向けた。
「なぜ、あの者たちを庇う」
将門は。
しばらく何も答えなかった。
夜風が吹く。
折れた軍旗が揺れる。
やがて。
将門は、遠い過去を見るように空を仰いだ。
「余は」
「初めから、帝になろうとしたわけではない」
平安の世。
東国は荒れていた。
争いが絶えず。
土地を巡って人が殺され。
中央の権力は遠く。
民の声が都へ届くことはなかった。
税を奪われ。
田畑を焼かれ。
助けを求めても。
誰も来ない。
将門は戦った。
自らの土地を守るため。
民を守るため。
一族を守るため。
そして。
勝ち続けた。
勝てば人が集まる。
人が集まれば、さらに広い土地を守らなければならない。
守るために戦い。
戦うために兵を増やし。
兵を養うために土地を求めた。
いつしか。
将門は。
東国を支配する者となっていた。
「その頃であった」
将門は語る。
「一人の男が、余のもとへ現れた」
長い黒髪。
穏やかな笑み。
人ならざるほど整った顔。
徐福。
男は将門へ告げた。
――坂東を安定させたいのであれば。
――あなた様が帝となればよい。
――都の帝は、東国の民を見ておりませぬ。
――ならば、東国には東国の王が必要でしょう。
「余は、その言葉を信じた」
将門の拳が震える。
「余が王となれば」
「争いを終わらせられると思うた」
「民を守り」
「坂東に、誰にも奪われぬ国を築けると」
だが。
徐福は。
同じ頃。
朝廷にも言葉を流していた。
――平将門は、帝を討とうとしている。
――東国に偽りの王朝を築き、日本を奪おうとしている。
将門には。
帝となることを勧め。
朝廷には。
将門を反逆者として伝える。
双方へ異なる真実を与え。
疑念を煽り。
剣を抜かせた。
「途中で」
将門は静かに言った。
「余も、気づいておった」
煌が目を細める。
「騙されていたと?」
「そうだ」
将門は頷いた。
「あの男が」
「余と朝廷を争わせようとしていることも」
「余の怒りを利用し」
「何か別のものを育てようとしていることもな」
黒龍。
人の怒り。
憎しみ。
悲しみ。
戦争によって生まれた負の感情を喰らい。
成長する災厄。
将門の反乱は。
徐福にとって。
黒龍へ与える巨大な餌だった。
「ならば、なぜ止まらなかった」
煌は問う。
「騙されていると分かっていたのなら」
「なぜ、剣を納めなかった」
将門は。
自分を見つめる千の兵へ視線を向けた。
「もう」
「余一人の戦ではなかったからだ」
将門を信じて。
家を捨てた者がいた。
家族を残し。
武器を取った者がいた。
王のためではなく。
自分たちの土地を。
自分たちの家族を。
守るために戦った者たちがいた。
「余だけならば」
「逆賊と呼ばれようとも構わぬ」
「首を晒されようとも」
「千年、地獄を彷徨おうともな」
将門の眼に。
再び炎が宿る。
「だが」
「我が民まで」
「我が兵まで」
「愚かな反逆者として」
「私欲のために戦った者として、愚弄することだけは許せぬ!」
黒い霊気が膨れ上がる。
それは怒りだった。
だが。
自分のための怒りではない。
名を残されなかった者たち。
歴史に記されなかった者たち。
ただ故郷を守るために戦い。
逆賊の兵として死んだ者たちへの。
王の怒りだった。
「だから余は残った」
将門は立ち上がる。
「怨霊王として」
「この者たちの無念が消える、その日まで」
「余だけは」
「最後まで、王であり続けると決めたのだ」
煌は。
何も言えなかった。
目の前にいる男は。
天城家を滅ぼした敵だ。
許せるはずがない。
奪われた命が戻ることもない。
それでも。
煌には見えてしまった。
将門の背後に立つ、千の兵。
武器を持ちながら。
王の言葉を静かに聞いている者たち。
彼らは。
世界を奪いたかったわけではない。
ただ。
守りたかった。
煌と同じように。
大切なものを。
失いたくなかっただけだった。
煌は草薙剣を見つめた。
守るために。
剣を抜く。
敵を倒すために。
さらに強い剣を求める。
だが。
その先に何がある。
敵もまた。
守るために剣を取ったのなら。
互いに剣を上げ続ける限り。
戦いは。
永遠に終わらない。
煌は。
静かに草薙剣を下ろした。
そして。
鞘へ納めた。
かちり。
小さな音だった。
ビルが崩れる音よりも。
剣が激突する音よりも。
遥かに小さな音。
だが。
その場にいた千の兵が。
確かに、その音を聞いた。
将門が煌を見る。
「……何の真似だ」
「もう戦わない」
「情けをかけるか」
「違う」
煌は将門を真っ直ぐ見た。
「お前を許したわけではない」
天城家の者たち。
父。
母。
守ることのできなかった人々。
その痛みは。
消えることなどない。
「だが」
煌は続ける。
「ここで俺がお前を斬れば」
「お前の兵は、俺を憎む」
「俺が兵を斬れば」
「お前は、さらに俺を憎む」
「その先には」
「また次の戦いしか残らない」
将門は黙っている。
煌は、自らの鞘へ手を置いた。
「武とは」
一つずつ。
確かめるように言う。
「敵を倒し続ける力ではない」
「上げた剣を」
「最後に、自分の意志で納める力だ」
武。
その文字は。
戈を。
止めると書く。
戦う力を持たぬ者が。
剣を置くことではない。
相手を斬れる力がありながら。
それでも。
自らの意志で止めること。
「それが」
煌は言った。
「俺の武だ」
長い沈黙。
将門は。
地面へ落ちた自らの太刀を見た。
その刃には。
千年分の怒りが。
憎しみが。
悲しみが宿っている。
これを握れば。
まだ戦える。
煌を倒し。
草薙剣を奪い。
再び王として立つこともできる。
だが。
その先にあるものは。
また。
血と炎の世界だけだ。
将門は。
ゆっくりと太刀を拾い上げた。
坂東武者たちが。
一斉に武器を構える。
安倍天明も。
息を呑んだ。
将門は煌の前へ立つ。
二人の距離は。
一歩。
そして。
将門は。
太刀を鞘へ納めた。
かちり。
今度は。
千年続いた戦が。
終わる音だった。
将門が片手を上げる。
「兵を退けよ」
千の坂東武者たちが。
ゆっくりと武器を下ろしていく。
槍が下がる。
弓が下がる。
太刀が鞘へ戻される。
千の怨霊が。
王とともに。
自らの剣を納めた。
将門は煌を見る。
「敵を生かし」
「なお、勝つか」
その口元に。
穏やかな笑みが浮かぶ。
「なるほど」
「それが、貴様の武か」
将門の身体から。
黒い霊気が剥がれ始める。
怒り。
憎しみ。
執着。
千年にわたり。
彼を怨霊王として縛り続けていたもの。
その黒い霧が。
夜空へ昇っていく。
背後の兵たちからも。
同じように怨念が離れていく。
兜の奥に。
かつて人間であった頃の顔が戻る。
王を信じ。
故郷のために戦った。
ただの。
坂東のもののふたち。
将門は空を見上げた。
「長かった」
千年。
あまりにも長い戦だった。
「ようやく」
「余は、剣を納められる」
煌は答えなかった。
ただ。
草薙剣の柄から手を離した。
その背後で。
安倍天明が大きく息を吐き。
地面へ仰向けに倒れ込んだ。
「……ほんま」
夜空を見上げながら。
苦笑する。
「最初から、そうしてくれたら」
「楽やったんやけどなあ……」
将門の笑い声が。
静かな八王子の夜へ響いた。
それはもう。
怨霊王の笑いではなかった。
坂東を愛し。
民を守ろうとし。
最後には。
自らの剣を納めることを選んだ。
一人の王の。
穏やかな笑いだった。




