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NOESISーノエシスー  作者: 月乃瀬
第三章ー八王子怨霊編ー
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第十六話 反逆の王

八王子の夜は、騒がしかった。


 


駅前を行き交う人々。


店先から漏れる音楽。


信号が変わるたび、道路を渡っていく無数の足音。


 


誰かが笑い。


誰かが怒り。


誰かが、明日の予定を語っている。


 


どこにでもある夜だった。


 


少なくとも。


 


人間たちにとっては。


 


 


天城煌は、八王子駅前から少し離れた大通りに立っていた。


 


白いロングコート。


風に揺れる銀紫の髪。


 


腰には、一本の剣。


 


草薙剣。


 


日本神話に名を残す三種の神器。


 


だが。


煌はこれまで、その刀身を一度も晒したことがなかった。


 


抜く必要がなかったからだ。


 


鞘に収めたままでも。


殴れば敵は倒れた。


振れば結界は砕けた。


 


天城煌という人間は。


剣を抜く以前に、すでに一つの武器として完成していた。


 


その隣で。


安倍天明が大きな欠伸をした。


 


黒い羽織。


狐のように細い目。


 


「ほんまに来るんかねえ」


 


天明は、夜空を見上げた。


 


「千人やろ?」


 


「言っていた」


 


煌は短く答える。


 


「次は、千の軍勢を率いて来ると」


 


「怨霊の約束なんて、律儀に守らんでもええのになあ」


 


天明は笑った。


 


いつもの。


何も考えていないように見える笑顔だった。


 


けれど。


 


その右手には、すでに四枚の護符が挟まれている。


 


東。


西。


南。


北。


 


四方を守護する神獣の札。


 


天明だけは、もう気づいていた。


 


夜が。


変わり始めていることに。


 


 


最初に聞こえたのは。


 


蹄の音だった。


 


 


一つ。


 


二つ。


 


十。


 


百。


 


 


地面の底から響くような、重い音。


 


アスファルトが揺れる。


ビルの窓が震える。


街灯の明かりが、わずかに瞬く。


 


だが。


 


通行人たちは、誰一人として振り返らない。


 


若者はスマートフォンを見つめ。


会社員は駅へ急ぎ。


親子連れは手を繋ぎ、横断歩道を渡っている。


 


彼らのすぐ横を。


 


鎧武者の群れが通り過ぎていく。


 


 


錆びた兜。


折れた矢。


血に染まった旗。


 


身体を槍に貫かれた者。


首を失った者。


腹から黒い霧を垂らす者。


 


坂東武者。


 


かつて東国の野を駆け。


土地を奪い。


土地を守り。


最後には、逆賊の軍勢として歴史に刻まれた者たち。


 


亡霊の軍勢は。


現代の八王子など存在しないかのように行軍していた。


 


自動車をすり抜け。


人間をすり抜け。


ビルの壁さえすり抜けていく。


 


誰も気づかない。


 


誰にも見えない。


 


ただ。


煌と天明だけが。


 


千年前の死者たちを、真正面から見つめていた。


 


街と軍勢。


 


現代と平安。


 


生者と死者。


 


異なる二つの時代が。


同じ場所に重なっている。


 


それは戦争ではなかった。


 


戦争が始まる以前の。


 


死そのものの行進だった。


 


 


「九百九十五」


 


天明が呟く。


 


「九百九十六」


 


笑みを浮かべたまま。


一人ずつ、その数を数えている。


 


「九百九十七」


 


「九百九十八」


 


「九百九十九」


 


そして。


 


最後の一騎が現れた。


 


 


黒い馬。


 


朱色の大鎧。


 


巨大な太刀。


 


兜の奥から覗く眼光は。


千年の時を経ても、なお消えない炎を宿している。


 


平将門。


 


朝廷へ反旗を翻し。


自らを新皇と名乗った男。


 


東国の王。


 


そして。


 


日本最大の怨霊王。


 


「千」


 


天明の笑みが、わずかに深くなる。


 


「ほんまに、きっちり千人や」


 


将門が片手を上げた。


 


その瞬間。


 


千の軍勢が止まった。


 


蹄の音も。


鎧の擦れる音も。


旗が風を裂く音さえも。


 


すべてが消える。


 


千人の死者が。


ただ一人の命令を待っている。


 


将門は馬上から、煌を見下ろした。


 


「待たせたな」


 


低い声が、夜の街を震わせる。


 


「草薙の小僧」


 


煌は答えない。


 


将門は、背後に連なる坂東武者たちへ視線を向けた。


 


「約束通り」


 


「千の兵を率いてきたぞ」


 


天明が、小さく肩をすくめる。


 


「約束守るタイプの怨霊、いちばん面倒やな」


 


将門の眼が、煌へ戻る。


 


正確には。


 


煌の腰に差された剣へ。


 


草薙剣。


 


神を斬り。


災厄を退け。


王の証として受け継がれてきた剣。


 


将門の視線に。


隠しきれない執念が宿る。


 


「今度こそ」


 


「その草薙の剣を、我が物とする」


 


黒い馬が前脚を上げる。


 


大地を踏み鳴らす音とともに。


将門の鎧から、黒い怨念が溢れ出す。


 


「神代より伝わりし剣を得て」


 


「我が武を完成させようぞ」


 


 


我が武を完成させる。


 


その言葉に込められているものは。


ただの欲ではなかった。


 


将門は敗れた。


 


力が足りなかったから。


 


国を作ろうとした。


民を守ろうとした。


朝廷へ抗おうとした。


 


そして。


 


敗れた。


 


首を刎ねられ。


晒され。


逆賊として千年を彷徨った。


 


だからこそ。


 


求めている。


 


二度と負けない力を。


誰にも奪われない力を。


 


すべてを屈服させる。


完成された武を。


 


 


煌は静かに。


草薙剣の柄へ右手を置いた。


 


空気が変わる。


 


それだけで。


千の亡霊たちが、一斉に身構えた。


 


槍を握る手に力が入り。


弓兵たちが矢を番える。


 


将門の黒馬が、低く鼻を鳴らした。


 


天明の笑みが消える。


 


煌は将門を見上げた。


 


「これを」


 


鍔を押す。


 


微かな金属音。


 


それは。


 


神話の扉が開く音だった。


 


「お前に渡すわけにはいかない」


 


煌は。


 


草薙剣を抜いた。


 


 


光はなかった。


 


雷も。


炎も。


奇跡も起こらない。


 


ただ。


 


夜の中に。


一本の剣が現れた。


 


曇りのない刀身。


余計な装飾のない刃。


 


あまりにも静かで。


あまりにも古く。


 


そこにあるだけで。


周囲に満ちていた黒い怨念が、二つに分かれていく。


 


神話の時代から。


 


英雄とともに在り続けた剣。


 


草薙剣。


 


その刀身が。


千年の怨霊王を映していた。


 


将門が笑った。


 


「そうだ」


 


「それこそが、我が求めた剣よ」


 


笑い声に呼応し。


坂東武者たちが武器を掲げる。


 


千の雄叫び。


 


夜空が震える。


 


見えないはずの軍勢の声に。


街を歩く人々が、理由も分からず立ち止まった。


 


空を見上げる者。


胸元を押さえる者。


急に泣き出す子供。


 


誰も。


そこに死者がいるとは知らない。


 


それでも魂だけは。


 


戦争の始まりを感じ取っていた。


 


 


「天明」


 


煌が呼ぶ。


 


「分かってる」


 


天明は四枚の護符を空へ放った。


 


札が風に乗り。


四方へ飛ぶ。


 


東へ。


青龍。


 


西へ。


白虎。


 


南へ。


朱雀。


 


北へ。


玄武。


 


天明は両手を合わせた。


 


「四方を守護せし神獣よ」


 


軽薄な声が消える。


 


そこにいたのは。


笑ってばかりいる青年ではなかった。


 


千年の記憶を受け継ぎ。


人ならざるものを、人の世から切り離す陰陽師。


 


安倍天明。


 


「東方を守護せし、青龍」


 


東の空へ。


蒼い光の柱が立ち上がる。


 


「西方を守護せし、白虎」


 


西の空を。


白い雷光が駆け抜ける。


 


「南方を守護せし、朱雀」


 


赤い炎が翼を広げ。


夜空を焦がす。


 


「北方を守護せし、玄武」


 


黒い水が渦を巻き。


大地を覆う。


 


四つの光が、八王子の上空で交わる。


 


巨大な四角形が形成され。


その内側へ、陰陽の術式が幾重にも刻まれていく。


 


「天地四方」


 


「陰陽を分かち」


 


「生者と死者の境を定める」


 


天明が目を開いた。


 


細かった瞳が。


鋭い光を放つ。


 


「四神結界――展開」


 


 


世界が裏返った。


 


人々の声が遠ざかる。


車の音が消える。


ビルの明かりが霞んでいく。


 


八王子の街は、そこにある。


 


だが。


 


人間だけが消えていた。


 


正確には。


 


煌たちが、現実の八王子から切り離された。


 


生者の街と同じ形をした。


死者のための八王子。


 


壊しても。


燃やしても。


吹き飛ばしても。


 


現実の街には、傷一つ残らない。


 


神話と怨念だけが許された。


一夜限りの戦場。


 


 


結界の完成と同時に。


坂東武者たちが、一斉に武器を構えた。


 


槍。


弓。


太刀。


薙刀。


 


千の殺意が。


煌と天明へ向けられる。


 


天明は額に汗を浮かべながら。


それでも、にやりと笑った。


 


四神結界を維持しながら。


千の怨霊を相手にする。


 


普通の陰陽師なら。


そのどちらか一つだけでも、命を落とす。


 


だが。


 


安倍天明は。


 


普通ではない。


 


「天城ちゃん」


 


煌は振り返らない。


 


将門だけを見ている。


 


「雑魚は俺に任せて、先に行けー!」


 


天明は両手を大きく広げた。


 


その背後へ。


無数の術式が浮かび上がる。


 


五芒星。


九字。


陰陽の円環。


 


白い狐。


黒い鳥。


紙で作られた兵士たち。


 


数百を超える式神が。


天明の背後を埋め尽くしていく。


 


「――これ、言うてみたかってん!」


 


沈黙。


 


煌は一瞬だけ。


 


本当に一瞬だけ。


 


呆れたように目を細めた。


 


「先に行けと言われても」


 


煌は草薙剣を構える。


 


「目の前にいる」


 


「細かいこと気にしたら負けや」


 


天明が笑う。


 


「死ぬなよ」


 


煌が言う。


 


天明は一歩前へ出た。


 


千の軍勢を前に。


ただ一人で立つ。


 


「誰に言うてんの」


 


右手に護符。


左手に印。


 


「千人程度」


 


狐のような目が。


静かに開く。


 


「朝飯前や」


 


 


将門が馬から降りた。


 


地面へ足をつける。


 


ただそれだけで。


アスファルトが大きく陥没する。


 


黒馬は霧となって消え。


その黒い霧が、将門の大鎧へ吸い込まれていく。


 


身体が膨れ上がったわけではない。


 


それでも。


 


将門という存在が。


先ほどよりも遥かに巨大に見えた。


 


一国を背負った王。


 


数え切れない兵の死を背負った武将。


 


千年の怨念を背負った反逆者。


 


将門は、巨大な太刀を抜いた。


 


刀身から溢れ出すのは。


黒い怨念。


 


怒り。


悲しみ。


無念。


 


奪われた国。


守れなかった民。


届かなかった理想。


 


それらすべてが。


一本の刃へ凝縮されている。


 


「来い」


 


将門は太刀を構えた。


 


正眼。


 


それは奇をてらわない。


武人としての、真っ直ぐな構えだった。


 


「ヤマトタケル」


 


煌も。


草薙剣を正眼に構える。


 


「俺は」


 


静かな声。


 


けれど。


 


そこには一切の迷いがなかった。


 


「ヤマトタケルじゃない」


 


将門の眼が細くなる。


 


「天城煌だ」


 


 


次の瞬間。


 


二人の姿が消えた。


 


 


轟音。


 


草薙剣と。


怨霊王の太刀が激突する。


 


衝撃波が走る。


 


道路が裂け。


街路樹が根元から引き抜かれ。


結界内のビルの窓が、一斉に砕け散った。


 


千の軍勢が揺れる。


 


四神結界が軋む。


 


天明の羽織が。


爆風に激しくはためいた。


 


「……いや」


 


天明は、思わず振り返る。


 


煌と将門。


 


二人の剣がぶつかった中心で。


空間そのものが歪んでいる。


 


天明の頬が引きつった。


 


「いきなり飛ばしすぎやろ」


 


その瞬間。


 


坂東武者たちが雄叫びを上げた。


 


千の亡霊が。


天明一人へ殺到する。


 


「っと」


 


天明は前を向き直る。


 


護符を口元へ掲げ。


不敵に笑った。


 


「ほな」


 


「こっちも始めよか」


 


 


一方。


 


煌と将門は。


互いの剣を押し合ったまま、一歩も退かない。


 


草薙剣の神聖な刃。


 


将門の怨念に染まった太刀。


 


神話の英雄が残した剣と。


歴史に逆賊と刻まれた王の剣。


 


二つの武が。


 


千年を隔て。


 


八王子の夜に。


 


ついに。


 


激突した。

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