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NOESISーノエシスー  作者: 月乃瀬
第三章ー八王子怨霊編ー
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第十五話 天神様

黒龍が吼えた。


教室が軋む。


窓が割れ、答案用紙が黒い渦へ巻き上げられる。


その中心に、菅原道真は立っていた。


怒り。


悲しみ。


屈辱。


千年を超えてなお消えない感情が、黒い炎となって束帯を覆っている。


「答えよ、神崎蓮!」


道真の声が雷となって響く。


「余は、なぜ怨霊となった!」


蓮は答えなかった。


いや。


まだ、答えられなかった。


歴史に残された記録だけでは足りない。


藤原時平の讒言。


大宰府への左遷。


失意の死。


その後に起きた落雷と疫病。


それらは、後世の人間が並べた事実に過ぎない。


道真が知りたいのは。


人々が、なぜ自分を怨霊と呼んだのかではない。


自分がなぜ、これほどまでの憎しみに囚われたのか。


その答えだった。


蓮は目を閉じる。


「NOESIS」


『はい』


「記録ではなく、記憶を読む」


『対象の霊的記憶領域へ接続』


『黒龍による改変箇所を分離』


『神崎蓮の認識領域を展開します』


蓮の右目から、青い光が広がった。


黒い教室が砕ける。


雷も。


机も。


受験生も。


世界は再び、千年前へ遡っていった。


     ◇


朝廷。


菅原道真は、国の未来を信じていた。


遣唐使の廃止を進言した。


唐の衰退と、海を渡る危険を見抜いていたからだ。


身分に関係なく、才ある者が学べる世を望んだ。


苦しむ民の声を聞き、朝廷へ届けようとした。


名門の出ではない。


藤原氏のような強大な後ろ盾もない。


ただ学び。


考え。


書き続けた。


その知性だけで、右大臣まで昇った。


だからこそ。


恐れられた。


御簾の向こう。


朝廷の重臣たちが、一人の男の言葉へ耳を傾けている。


黒い長衣。


深く刻まれた皺。


穏やかな声。


徐福だった。


八咫烏大長老。


占術によって国の災いを予見し、幾度も朝廷を導いてきた人物。


当時の朝廷は、その言葉を疑わなかった。


「星が乱れております」


徐福は静かに告げる。


「このままでは、帝の御代を揺るがす大乱が起きましょう」


重臣が尋ねる。


「災いの中心にいる者は、誰だ」


徐福は、すぐには答えなかった。


迷うように目を伏せる。


苦渋に満ちた表情を作り。


やがて、一人の名を告げた。


「菅原道真公」


ざわめきが広がる。


「道真公は、類いまれなる才をお持ちです」


「されど、あまりにも才が大きすぎる」


「いずれ人々は帝ではなく、あの方の言葉へ従うでしょう」


「これは罪ではございません」


「しかし、国を守るためには」


徐福は目を閉じた。


「都から遠ざけるほか、ありませぬ」


恐れは、疑いへ変わった。


疑いは、やがて罪となった。


道真が帝を廃し、斉世親王を即位させようとしている。


そのような噂が流された。


弁明は許されなかった。


確かな証拠もなかった。


だが。


八咫烏大長老の占いが、疑いへ正しさを与えた。


昌泰四年。


菅原道真は、大宰府へ左遷された。


都を去る日。


道真は、自邸の梅を見上げていた。


東風吹かば

匂ひおこせよ梅の花

主なしとて

春を忘るな


その言葉に、呪いはなかった。


怒りもなかった。


ただ。


帰れない故郷を思う、悲しみだけがあった。


     ◇


大宰府。


粗末な住まい。


道真は都の方角を見ていた。


帰還を願う書状を送っても、返事は来ない。


家族と引き離され。


地位を奪われ。


病に身体を蝕まれても。


それでも道真は、国を呪わなかった。


「余に罪がないことが分かれば」


「いつか、お上も許してくださる」


その前に。


一人の来訪者が現れた。


徐福だった。


「道真公……」


徐福は道真の姿を見るなり、膝をついた。


その目には、涙さえ浮かんでいた。


「なぜ、あなたほどのお方が」


「国のために学び」


「民のために働き」


「誰よりも努力してこられた、あなたが」


「このような場所へ追いやられなければならないのか」


道真は黙って聞いていた。


徐福は涙を拭う。


「朝廷は、あなたを恐れたのです」


「才を持たぬ者たちが」


「あなたの正しさを妬んだ」


「あなたは騙されたのです」


「利用され」


「すべてを奪われた」


徐福が道真へ近づく。


その背後に。


人の目には見えない黒い龍がいた。


「このまま許してよいのですか」


優しい声だった。


同情する声だった。


道真が最も聞きたかった言葉だった。


あなたは間違っていない。


あなたは努力した。


あなたは国を思っていた。


悪いのは、あなたを追放した者たちだ。


正しい言葉に混ぜて。


徐福は、黒い感情を流し込んでいく。


「憎んでもよいのです」


「恨んでもよいのです」


「あなたには、その権利がある」


黒龍が、道真の胸へ入り込んだ。


     ◇


「違う」


蓮の声が、記憶の中へ響いた。


映像が止まる。


道真が振り返る。


「何が違う」


蓮は徐福を見つめていた。


『霊的記憶の解析を完了』


『菅原道真の感情と、黒龍による干渉を分離』


『結論を提示可能』


蓮は道真へ向き直った。


「あなたの怒りは、本物です」


「あなたの悲しみも、奪われた人生も」


「後から作られたものではありません」


道真の表情が歪む。


「ならば、余が怨霊となったのは当然であろう!」


「いいえ」


蓮は否定した。


「あなたは、自分から怨霊になったんじゃない」


黒龍がざわめく。


「あなたは、怨霊にされた」


道真の瞳が揺れた。


「徐福は、朝廷にあなたを危険だと信じ込ませた」


「あなたを都から追放したあとで、今度は理解者を装って近づいた」


「あなたが最も苦しんでいたときに」


「あなたが最も聞きたかった言葉を使って」


「恨みだけを育てた」


黒龍が吼える。


蓮の声を消そうと、雷を落とす。


それでも蓮は道真から目を逸らさなかった。


「あなたは国を呪いたかったんじゃない」


「本当は、帰りたかった」


「もう一度、国のために働きたかった」


「自分の学んだことを」


「未来を生きる人たちへ残したかった」


「黙れ!」


道真が叫ぶ。


黒龍が蓮へ襲いかかる。


青い光が広がった。


蓮は防がない。


逃げない。


ただ、道真へ手を伸ばした。


「天神様」


その呼び名に。


黒龍の動きが止まった。


「僕は、あなたを怨霊だとは思いません」


「間違っていたとも思いません」


「あなたが苦しんだことを、許せとも言いません」


「許さなくていい」


道真は蓮を見る。


「ですが」


「徐福に与えられた憎しみによって」


「あなた自身を決める必要はない」


蓮の右目が強く光る。


「あなたが遺したものは、怨みだけじゃない」


学問。


詩。


言葉。


祈り。


今も天満宮で手を合わせる人々。


合格を願う学生たち。


努力が報われることを願う者たち。


千年を超えて受け継がれてきた、無数の祈りが現れる。


「あなたは今も」


「学ぶ人たちの背中を押している」


「それが、あなたの本当の姿です」


黒龍の身体に、亀裂が走った。


「違う……」


黒龍が、人の言葉で呻く。


「憎め」


「奪われたものを忘れるな」


「許すな」


道真は目を閉じた。


長い沈黙。


やがて。


「余は、許さぬ」


静かな声だった。


「余を陥れた者たちも」


「この心へ入り込んだ徐福も」


「許すことなど、できぬ」


蓮は頷いた。


「はい」


「それでもよいのだな」


「はい」


「許すことと、因縁を終わらせることは違います」


道真の頬を、一筋の涙が伝った。


「そうか」


道真は、自らの胸へ手を置く。


「ならば」


「この怨みは、余自身の手で終わらせよう」


白い雷が落ちた。


黒龍の身体が砕ける。


黒い鱗は梅の花びらへ変わり、教室いっぱいに舞い上がった。


道真を覆っていた闇が消えていく。


黒い束帯は白銀の光を帯び。


荒れ狂っていた瞳は、穏やかな知性を取り戻す。


そこに立っていたのは。


日本三大怨霊ではない。


学ぶ者たちの祈りを受け継いだ神。


天満大自在天神。


菅原道真だった。


道真は蓮の答案へ手をかざす。


朱色の不正解が消える。


代わりに。


一輪の梅が浮かび上がった。


――合格。


「見事であった」


道真が微笑む。


「神崎マリアの息子」


「いや」


「神崎蓮よ」


妖の試験会場に、朝の光が差し込む。


「学び続けよ」


「正しいとされた答えを、疑うことを恐れるな」


「知とは、誰かを従わせるための力ではない」


「声を奪われた者を、理解するための力なのだから」


蓮は静かに頭を下げた。


「はい」


教室が光に包まれる。


空席となった机の上に、梅の花が咲いていく。


長い試験が。


ようやく終わりを告げた。

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