第十四話 正しい歴史
教室は消えていた。
机も。
受験生も。
答案用紙も。
神崎蓮が立っていたのは、千年以上前の都だった。
朱塗りの門。
白砂の庭。
黒い束帯に身を包み、朝廷を行き交う貴族たち。
それは映像ではない。
音がある。
匂いがある。
風がある。
この時代を生きた人々の感情までが、重苦しい空気となって蓮の肌へ触れていた。
『霊的記憶領域への移行を確認』
『年代を推定』
『平安時代中期』
蓮の右目が青く光る。
視界の中央に、最後の問題が表示された。
最終試験――歴史。
問。
菅原道真は、なぜ怨霊となったのか。
問いは一つ。
これまでの問題とは違い、制限時間は表示されていなかった。
蓮は目の前の光景を見る。
一人の男が朝廷の中を歩いている。
菅原道真。
学者の家に生まれ、文章と学問の才によって地位を上げた。
宇多天皇に重用され、右大臣にまで昇った人物。
家柄ではなく。
武力でもなく。
ただ、その知性によって朝廷の頂点へ近づいた男。
同時に。
急速な出世によって、藤原氏をはじめとする貴族たちの警戒を招いた男。
『関連する史実情報を検索』
『菅原道真の左遷』
『昌泰四年――西暦九〇一年』
『藤原時平らの讒言により、大宰権帥へ左遷』
映像が変わる。
道真の前で、朝廷の門が閉ざされる。
呼び止める者はいない。
弁明を聞く者もいない。
都から遠ざかる牛車。
その背中を、咲き始めた梅の花だけが見送っていた。
『延喜三年――西暦九〇三年』
『大宰府にて死去』
『その後、疫病、落雷、要人の死などが相次ぐ』
『朝廷はこれらを道真の怨霊による祟りと判断』
『のちに天満大自在天神として神格化』
解析は完了した。
歴史上の因果関係も。
人々が道真を怨霊として恐れた理由も。
すべて明確だった。
蓮の前に、机と答案用紙が現れる。
鉛筆を取る。
そして、史実に基づく回答を書いた。
菅原道真は、藤原時平らの讒言によって謀反の疑いをかけられ、大宰府へ左遷された。
弁明を認められないまま現地で没し、その後、都で疫病、落雷、政敵の死が相次いだ。
人々はそれらを道真の祟りと恐れ、非業の死を遂げた道真を怨霊として認識した。
一文字の誤りもない。
NOESISが再確認する。
『史実との整合率――九九・九パーセント』
『解答を確定』
蓮は鉛筆を置いた。
その瞬間。
答案用紙に朱色の光が走った。
蓮は結果を待つ。
やがて。
紙面の中央に、二文字が浮かび上がった。
――不正解。
蓮の目が、わずかに見開かれる。
「なぜだ」
『解答内容を再検証』
『史実との矛盾を確認できません』
『誤答となる要因――算出不能』
初めてだった。
NOESISが、正解を導き出せないのではない。
導き出した答えが。
歴史そのものと一致した答えが。
正面から否定された。
蓮は顔を上げる。
白砂の向こう。
閉ざされた朝廷の門の前に、菅原道真が立っていた。
黒い束帯。
長い黒髪。
その背後に、雷雲が集まり始めている。
「史実どおりです」
蓮は告げる。
「残されている記録とも一致しています」
道真は答えない。
「あなたが左遷された経緯も」
「死後に起きた災害も」
「朝廷があなたを怨霊として恐れた理由も」
「すべて確認しました」
沈黙。
梅の花びらが、一枚だけ落ちる。
道真は蓮を見た。
その目には。
これまで試験官として保たれていた静けさがなかった。
「確認した、か」
低い声だった。
空が震える。
「誰が残した記録を」
「誰が正しいと定めた歴史を」
蓮の周囲で、都の景色が歪み始める。
建物が黒く染まる。
貴族たちの顔が消える。
彼らの手にしていた筆だけが残り、空中へ同じ言葉を書き続ける。
罪人。
謀反人。
祟り。
怨霊。
「歴史とは、過去そのものではない」
道真が一歩、蓮へ近づく。
「勝者が後に書き残した、己に都合のよい答えよ」
「敗れた者の言葉は消される」
「弁明は記録されぬ」
「苦しみも」
「願いも」
「何を信じ」
「何を守ろうとしたのかさえ」
道真の足元から、黒い靄が立ち昇る。
最初は、薄い煙だった。
それが脈打つ。
まるで生き物のように。
ふつ。
ふつ。
黒い感情が泡立ち、道真の身体へ絡みついていく。
『高密度の霊的汚染を確認』
『対象内部より異質な霊力が増大』
『感情領域への侵食率――上昇』
蓮は道真を見つめる。
これは道真自身の怒りだ。
けれど。
それだけではない。
怒りを煽り。
悲しみを掘り返し。
千年前の傷を、今も新しい傷として開き続ける何かがいる。
道真の背後で。
巨大な黒龍が、ゆっくりと鎌首をもたげた。
「神崎蓮」
道真の声が教室に響く。
いつの間にか、二人は妖の試験会場へ戻っていた。
無数の受験生たちが、恐怖に震えている。
窓の外では雷が荒れ狂い、梅の花が黒く染まっていく。
「そなたは余の左遷を知った」
「余の死を知った」
「余が怨霊と呼ばれた経緯も知った」
道真の両目に雷光が宿る。
「だが」
「余が、なぜ怨霊となったのかを」
黒龍の顎が開く。
教室の天井が軋む。
答案用紙が一斉に黒く染まった。
「いくらそなたでも」
「計り知れるものではない!」
轟音。
雷が教室を貫いた。
蓮の答案が宙へ舞い、炎もないまま黒い灰となる。
史実どおりの回答。
記録と一致した回答。
誰もが正解だと信じる回答。
それが。
本人によって、不正解とされた。
『解答の再構築を開始』
『史実情報を除外』
『対象の感情記憶を解析』
『警告』
『外部存在による記憶干渉の可能性』
蓮の右目が強く光る。
道真の背後にいる黒龍。
その深い闇の奥に。
道真とは異なる、別の意思が潜んでいる。
この試験は。
まだ終わっていない。
本当の問いは。
歴史書の中には存在しない。
蓮は新しい答案用紙を手に取った。
正しい歴史とは何か。
次に答えるべき問題は。
そこからだった。




