第十三話 完全解答
鐘が鳴った。
低く。
重く。
千年分の時間を、一度に震わせるように。
妖の試験会場。
その最前列で、神崎蓮は問題冊子を開いた。
第一科目。
国語。
制限時間、五十分。
問題数、五十。
合格点。
百点。
一問の誤答も許されない。
蓮は鉛筆を握る。
右目に青い光が宿った。
『NOESIS起動』
『言語解析領域を展開』
『試験問題の構造を解析』
最初は、現代文だった。
提示された文章を読み、登場人物の心情を答える。
けれど、その文章は読むたびに内容を変えた。
喜びは悲しみに。
善意は悪意に。
昨日は味方だった人物が、次の行では敵になっている。
読む者の記憶と感情を参照し、最も判断を誤りやすい文章へ変化している。
普通の読解問題ではない。
受験者自身の認識を試す、妖の文章だった。
『文章変化の法則を確認』
『設問が参照する時点を特定』
『解答を確定』
蓮の鉛筆が走る。
迷いはなかった。
次に、古文。
漢文。
見たことのない文字。
歴史から失われた言語。
書いた者の名すら残っていない、千年前の手紙。
それでもNOESISは、文法だけを見ているのではない。
筆圧。
墨の濃淡。
文字の乱れ。
言葉が書かれた当時の風習。
書き手と読み手の関係。
残された情報のすべてから、文章に込められた意図を再構築する。
『書き手は、帰郷を望んでいます』
『しかし、受取人へ負担をかけぬよう、別れを選んでいます』
蓮は、最後の解答を書き終えた。
その瞬間。
答案用紙に朱色の印が浮かぶ。
――百点。
教壇に立つ菅原道真は、何も言わなかった。
ただ、静かに蓮を見つめている。
第二科目。
数学。
問題冊子を開く。
数式が紙面から浮かび上がった。
数字と記号が教室を覆い、無数の幾何学模様へ変わる。
一つ間違えば、次の式そのものが消える。
一度選んだ解法を、途中で戻ることはできない。
計算速度だけでは足りない。
最初の一手で、最後の証明まで見通す必要がある。
『解法候補――一万二千八百四通り』
『最短経路を選択』
蓮の鉛筆が止まらない。
一問。
十問。
三十問。
最終問題。
証明終了。
――百点。
そのとき。
教室の後方から、声が聞こえた。
「あ……」
小さな声だった。
一人の受験生が、自分の答案を見つめている。
着物姿の少女。
答案には、朱色の文字が浮かんでいた。
――不合格。
少女の指先が灰になる。
腕へ。
肩へ。
胸へ。
崩壊は、ゆっくりと全身へ広がっていった。
「いや」
少女は答案を握りしめる。
「もう一度」
「次は、間違えないから」
けれど、試験会場は答えない。
身体だけではない。
少女を構成していた記憶も。
名前も。
願いも。
その魂ごと、灰となって崩れていく。
最後に残ったのは、誰かに認められたいと願った表情だけだった。
それさえも。
風に消えた。
『霊的構造の消滅を確認』
『対象の魂魄反応――消失』
転生もできない。
霊として残ることもできない。
落第とは、死ではなかった。
存在そのものの終わりだった。
蓮の手が止まる。
道真が告げる。
「試験を続けよ」
「目を逸らしても、結果は変わらぬ」
蓮は教壇を見る。
「最初から、この条件を?」
「知る覚悟のない者が、知を求めた」
「その代価を支払ったまで」
また一人。
答案に、不合格の文字が浮かぶ。
今度は鎧を着た武士だった。
「まだだ!」
刀へ手を伸ばす。
だが、刀より早く、魂が朽ちていく。
叫び声さえ、途中で消えた。
続いて。
一人。
また一人。
妖。
亡霊。
名を失った学者。
時代に取り残された受験生たちが、次々と灰へ変わっていく。
教室から席が消えていく。
それでも試験は止まらない。
第三科目。
理科。
物理。
化学。
生物。
地学。
落雷の速度。
星の運行。
人体を流れる微弱な電気。
一滴の血から始まる生命の連鎖。
問題文は紙の上だけには存在しなかった。
道真が指を動かす。
教室の天井に雷雲が生まれた。
「問う」
「この雷が地へ到達する時刻と地点を求めよ」
NOESISが現象を観測する。
気圧。
湿度。
電位差。
霊力による空間の歪曲。
『落雷まで、二・八秒』
『着弾地点――座標を表示』
蓮は解答を書く。
二・八秒後。
雷が落ちた。
青白い閃光が教室を焼く。
着弾地点は、蓮が示した座標と一ミリも違わなかった。
――百点。
第四科目。
英語。
最初の問題は、短い英文だった。
しかし、頁を進めるたびに時代が変わる。
古英語。
失われた方言。
異なる文化。
同じ言葉でありながら、時代によって正反対の意味を持つ文章。
NOESISは単語を翻訳するだけではない。
その言葉を使った人間が、何を恐れ、何を信じ、誰へ伝えようとしたのか。
文化そのものを読み取っていく。
『翻訳完了』
『話者の真意を補足』
最後の解答を書き終える。
――百点。
教室は、ずいぶん広くなっていた。
違う。
広くなったのではない。
受験生が減ったのだ。
数百あった机の大半が、空席になっている。
残された者たちは、震える手で鉛筆を握っていた。
泣いている者もいた。
祈っている者もいた。
すでに自分の名前を忘れ、それでも問題を解き続ける者もいた。
その中で。
蓮だけが、四枚の答案を机へ並べていた。
すべて百点。
国語。
数学。
理科。
英語。
完全解答。
道真は初めて、わずかに目を細めた。
「見事」
「その歳で、これほどの知を持つ者を余は知らぬ」
「ですが」
蓮は答える。
「まだ、最後の科目が残っています」
「ああ」
道真が右手を上げる。
教室の照明が消えた。
窓の外で雷が鳴る。
満開の梅が、一斉に散った。
黒い龍が、道真の背後でゆっくりと目を開く。
蓮の机へ。
最後の問題冊子が落ちた。
第五科目。
社会。
地理。
政治。
経済。
そして。
歴史。
冊子の表紙に、古びた梅の花が浮かび上がる。
これまでとは違う。
NOESISが、問題冊子へ接続できない。
『対象情報を解析できません』
『内部に強力な霊的封印を確認』
蓮は表紙へ手を置いた。
冷たい。
まるで、長いあいだ誰にも触れられなかった墓石のように。
道真が蓮を見下ろす。
「神崎蓮」
「ここまでの問題には、すべて答えがあった」
「言葉にも」
「数にも」
「天地の理にも」
「異国の声にも」
道真の声に、初めて感情が混じった。
怒り。
悲しみ。
そして、千年以上消えなかった疑問。
「だが、歴史は違う」
「歴史とは、正しかった者が記されるものではない」
「生き残った者が、自らを正しいと記すものだ」
黒い気配が、教室を満たしていく。
蓮の右目が、さらに強く光る。
「最後の試験を始めよう」
道真が告げる。
「そなたの知が」
「人の残した答えを繰り返すだけのものか」
「それとも」
「歴史から消された真実へ、届くものなのか」
蓮は最後の問題冊子を開いた。
その瞬間。
教室が消えた。
机も。
受験生も。
雷も。
蓮の視界を、千年前の都が覆い尽くす。
第五科目。
社会。
最終試験。
――歴史。




