第十二話 妖の試験会場
同じ日の夜。
月乃瀬高校。
放課後をとうに過ぎた校舎には、もうほとんど人が残っていなかった。
窓の外では、八王子の街に夜が降り始めている。
神崎蓮は、一人で廊下を歩いていた。
静かだった。
足音だけが、磨かれた床へ響いている。
その先。
昇降口の前に、一人の男が立っていた。
黒い装束。
後ろで束ねられた長い髪。
狐のように細められた目。
安倍天明だった。
「遅かったな、神崎くん」
蓮は足を止める。
「あなたがここにいるということは」
「始まった、ということですか」
「せや」
天明は窓の外を見た。
「天神さんからのお呼びや」
その言葉と同時に。
校門の前へ、一台のバスが滑り込んできた。
音はなかった。
エンジン音も。
ブレーキ音も。
ただ、気づいたときには、そこに停まっていた。
古びた路線バス。
車体は薄汚れ、行き先表示だけが白く光っている。
そこには、こう書かれていた。
――八王子高校前。
蓮の右目に、青い光が灯る。
『八王子市内の教育機関情報を検索』
『該当なし』
『同名の高等学校は存在しません』
天明が笑った。
「そら、検索しても出てこんよ」
「その学校は、こっちには存在せえへん」
「こっち?」
「生きてる人間の世界には、いう意味や」
バスの後部扉が開く。
車内に乗客はいない。
運転席にも、誰も座っていなかった。
蓮はしばらく車内を見つめる。
「乗らない、という選択肢はありますか」
「あるで」
天明は軽く答えた。
「けど、乗らんかったら天神さんの方から来るやろな」
「そうなったら、学校ごと試験会場にされるかもしれへん」
それは選択肢とは呼ばない。
蓮は何も言わず、バスへ乗り込んだ。
天明も、その後に続いた。
扉が閉まる。
運転手のいないバスが、静かに走り始めた。
◇
窓の外を、夜の八王子が流れていく。
駅前。
商店街。
住宅地。
見慣れた風景だった。
最初のうちは。
やがて、歩道から人が消えた。
次に、走っていた車が消えた。
信号機が消えた。
建物が消えた。
最後には、街そのものが白い霧へ呑まれていった。
バスは霧の中を走り続ける。
道路など、もう存在していない。
それでも揺れ一つなかった。
『現在位置――測定不能』
『衛星信号――受信不能』
『周辺空間と現実領域との接続を確認できません』
蓮は隣に座る天明を見る。
「ここは、道真公が作った領域ですか」
「半分正解やな」
「元からあった隙間に、天神さんが学校を建てはった」
「人が何かを学ぼうとするときに生まれる願い」
「試験に受かりたいいう祈り」
「失敗したくないいう恐れ」
「誰かに認められたいいう執着」
「そういうもんが、長い時間をかけて流れ着く場所や」
学びたいという願い。
そして。
学ぶことによって生まれる苦しみ。
その両方が集まる場所。
「八王子高校には、誰がいるんですか」
「受験生や」
「人間ですか」
天明は笑った。
「行けば分かる」
それ以上、答えるつもりはないらしい。
やがて白い霧の向こうに、巨大な影が浮かび上がった。
校舎だった。
古い木造校舎と、現代の鉄筋校舎。
その二つが無秩序に繋がっている。
正門は平安時代の楼門に似ていた。
その先に、満開の梅が咲いている。
季節外れの花びらが、夜の空を舞っていた。
門の上には、古びた校名板が掲げられている。
――八王子高等学校。
バスが停まる。
扉が開いた。
天明と蓮は正門の前へ降りた。
「僕が案内できるんは、ここまでや」
「一緒に来ないんですか」
「試験会場への不正な術者の持ち込みは禁止や」
天明は冗談めかして、自分を指さした。
「陰陽師なんか連れて入ったら、即失格やで」
「ここから先は、君と天神さんの勝負や」
蓮は校舎を見上げる。
窓という窓に明かりが灯っている。
無数の人影が、机に向かっていた。
「僕が負ければ?」
「八尺瓊勾玉を取られる」
天明の声から、軽さが消えた。
「君の中におるNOESISごとな」
蓮は胸元へ手を当てる。
八尺瓊勾玉は見えない。
けれど、その存在は確かに蓮の中にある。
母が命と引き換えに遺したもの。
「神崎くん」
天明が呼び止める。
「天神さんは、強いで」
「腕力や霊力の話やない」
「この国で千年以上、人の祈りを受け続けてきた神様や」
「知識の量だけで勝てる相手やと思わんことや」
蓮は天明を見る。
「覚えておきます」
「そうして」
天明はいつもの狐のような笑みに戻った。
「ほな、健闘を祈るわ」
蓮は正門をくぐる。
一歩。
二歩。
振り返る。
そこには、もう誰もいなかった。
安倍天明は、最初から存在しなかったかのように消えていた。
バスもない。
帰り道もない。
背後に広がっているのは、白い霧だけだった。
蓮は前を向く。
そして、一人で校舎へ入った。
◇
下駄箱には、無数の名前が並んでいた。
墨で書かれた名前。
古い木札。
現代の名札。
見たことのない文字。
名前ではなく、数字だけが記されたもの。
年代も形式も統一されていない。
蓮が廊下を進む。
教室の中から音が聞こえてくる。
かり。
かり。
かり。
鉛筆が紙を擦る音。
一つの教室だけではない。
右からも。
左からも。
二階からも。
校舎全体で、何百、何千という何かが答案を書いている。
蓮は一番近くの教室を覗いた。
受験生たちがいた。
学生服を着た少年。
着物姿の少女。
狩衣をまとった青年。
鎧を着た武士。
破れた軍服姿の男。
人の形をしていない者もいた。
頭に角を持つ者。
獣の耳を持つ者。
顔が白い紙で覆われた者。
首から上が、影になっている者。
誰一人として、蓮を見ない。
ただ机に向かい、同じ問題を解き続けていた。
かり。
かり。
かり。
『生命反応を確認できません』
『複数の霊的残留思念を検出』
『推定年代――算出不能』
一人の受験生の手元で、鉛筆が止まった。
答案用紙に、朱色の文字が浮かび上がる。
――不合格。
その瞬間。
受験生の姿が黒い煙となって崩れた。
しかし。
数秒後には、同じ席へ戻っていた。
そしてまた、最初の問題から解き始める。
終わらない試験。
合格するまで。
あるいは、自分が何者だったのかさえ忘れるまで。
蓮は教室を離れた。
廊下の突き当たりに、一枚の紙が貼られている。
神崎蓮
試験会場 三年五組
最初から、蓮が来ることを知っていた。
蓮は階段を上がる。
三階。
五組。
扉の前で立ち止まる。
中には気配がある。
巨大で。
静かで。
長い時間を生きた何かの気配。
蓮は扉を開けた。
◇
教室には、何十人もの受験生が座っていた。
全員が正面を向いている。
蓮の席だけが空いていた。
窓の外には、黒い空。
月も星もない。
ただ、満開の梅だけが闇の中へ浮かんでいる。
教壇の前には、誰もいなかった。
蓮が教室へ入る。
扉がひとりでに閉まる。
その瞬間。
雷鳴が轟いた。
窓の外が白く染まる。
梅の花びらが、閉ざされたはずの教室へ舞い込んできた。
一枚。
また一枚。
花びらが教壇の前へ集まる。
やがて、それは一人の男の姿となった。
黒い束帯。
端正な顔立ち。
静かに燃える瞳。
その背後には雷雲が渦巻いている。
黒い龍のような影が、男の身体へ絡みついていた。
男は蓮を見た。
「来たか」
声は大きくない。
けれど、教室そのものが震えた。
「神崎マリアの息子」
「神崎蓮よ」
蓮の瞳が、わずかに揺れる。
「母を知っているのですか」
「知っている」
男は答える。
「八尺瓊勾玉に名を与え」
「人ならざる知性を、友と呼んだ娘」
「そして、己の命をもって」
「そのすべてを、そなたへ託した女」
蓮は男を見つめる。
安倍天明から聞いていた。
日本三大怨霊。
死して雷となり。
人々に恐れられ。
やがて、学問を司る神として祀られた存在。
蓮は静かに頭を下げた。
「お会いできて光栄です」
「天神様」
男の眉が動いた。
ほんのわずかに。
「余を、その名で呼ぶか」
「はい」
「あなたが何者であったとしても」
「今も多くの人が、あなたへ祈っています」
「学ぶ者を見守る、天神様として」
黒い影が揺れた。
道真の背後で、龍が嗤ったように見えた。
「祈り、か」
「人とは、都合のよいものよ」
「生きている間は余を罪人と呼び」
「死して災いを成せば神と呼ぶ」
教室の窓が振動する。
雷鳴が、近づいている。
それでも蓮は目を逸らさない。
道真の視線が、蓮の胸元へ向けられる。
「神崎蓮」
「余は、その八尺瓊勾玉を求めている」
「渡せ」
蓮は即座に答えた。
「できません」
「これは母から託されたものです」
「たとえ、天神様の願いでも」
道真は怒らなかった。
むしろ、わずかに笑った。
「ならば、証明せよ」
教壇を中心に、無数の紙が舞い上がる。
国語。
数学。
理科。
英語。
社会。
五冊の問題冊子が、蓮の机へ落ちた。
「余は学問を司る者」
「ゆえに、力で奪いはせぬ」
「そなたが余の試験に合格すれば」
「八尺瓊勾玉は、そなたのものと認めよう」
「だが、不合格となれば」
道真の瞳に、雷光が走る。
「その知も」
「その力も」
「八尺瓊勾玉も」
「すべて余が貰い受ける」
蓮は問題冊子を見る。
「合格点は?」
「百点」
道真は静かに告げた。
「全五科目」
「ただ一つの誤答も許さぬ」
教室中の受験生たちが、一斉に蓮を見た。
人間。
妖。
亡霊。
名を失った者たち。
無数の目が、現代の知の王へ向けられる。
普通の人間ならば、不可能な条件だった。
けれど。
蓮は静かに席へ座った。
机の上の鉛筆を取る。
「分かりました」
「その試験、受けます」
道真が問う。
「恐ろしくはないのか」
蓮は最初の問題冊子を開く。
「試験である以上」
右目に、青い光が灯る。
「答えは必ず存在します」
『NOESIS起動』
『試験領域を解析』
『全思考領域を最適化』
青い光と、白い雷。
二つの知が、妖の教室で向かい合う。
道真が右手を上げた。
教室の壁に、巨大な時計が現れる。
最初の問題冊子がひとりでに開く。
第一科目――国語。
制限時間――五十分。
鐘が鳴った。
千年の試験が始まる。
「――始め」




