第十話 月花鏡明鏡止水
「我は大魔縁。」
「誰も。」
「許さぬ。」
「祈りなど。」
「決して届かぬのだ!」
黒き法衣が夜風に揺れる。
崇徳天皇は巨大な魔縁の鎌を振り上げた。
黒き怨念は夜空を裂き。
澄華の喉元へ一直線に振り下ろされる。
轟音。
石畳が砕け散った。
しかし。
そこに澄華はいなかった。
一歩。
また一歩。
静かに歩み寄る。
崇徳天皇の正面。
白銀の瞳が静かに月を映していた。
「崇徳天皇。」
「あなたは。」
「真実を知るべきです。」
崇徳は低く唸る。
「真実……?」
「余は。」
「この目で見た。」
「余は。」
「この身で味わった。」
「黙れ。」
「祈りなど。」
「届かぬ。」
澄華は静かに八咫鏡へ触れる。
「月読命。」
「どうか。」
「真実を。」
「この御魂へ。」
白銀の光が世界を包む。
──月花鏡明鏡止水。
世界から音が消えた。
黒き鎌も。
怨念も。
風も。
月明かりさえ。
すべてが止まる。
静寂。
天から。
一粒の雫が落ちた。
波紋が広がる。
白銀の世界。
その波紋と共に。
八百年前の真実が映し出されていく。
⸻
讃岐。
小さな庵。
崇徳上皇は今日も筆を執っていた。
夜明け。
昼。
夕暮れ。
墨を磨る。
一文字。
また一文字。
死んでいった者たちのため。
争いに巻き込まれた兵たちのため。
京の民のため。
そして。
この国の安寧のため。
二年。
ただ祈り続けた。
畑仕事を終えた老人が野菜を抱えてやって来る。
「上皇様。」
「うちで採れた大根です。」
漁師が魚を差し出す。
「今日はよう獲れました。」
「どうぞ召し上がってくだされ。」
子供たちが笑う。
「上皇様!」
「また字を書いてる!」
崇徳は優しく微笑んだ。
「ありがとう。」
「皆のおかげで。」
「余は生きておる。」
波紋はさらに広がる。
ある日。
一人の男が庵を訪れた。
「なんと。」
「見事なお経でしょう。」
「これほど祈りの込められた写経は見たことがございませぬ。」
黒衣の陰陽師。
八咫烏大長老。
徐福。
「必ず。」
「朝廷へお届けいたします。」
「これほどの祈り。」
「きっと天皇のお心も動きましょう。」
崇徳は静かに頷く。
「頼む。」
「余は。」
「もう一度だけ。」
「京へ帰りたい。」
⸻
景色が変わる。
京。
朝廷。
徐福は大量の写経を抱え。
玉座の前へ跪いた。
「畏れながら。」
「崇徳上皇より。」
「写経にございます。」
天皇が手を伸ばそうとした。
その瞬間。
徐福は静かに頭を下げる。
「ですが。」
「恐れながら。」
「この徐福。」
「先に拝見いたしました。」
「八咫烏大長老として申し上げます。」
「この写経。」
「祈りではございませぬ。」
「呪詛にございます。」
空気が凍る。
「上皇の。」
「強き怨念が込められております。」
「触れれば。」
「京にも。」
「災いが及びましょう。」
天皇は手を引いた。
「恐ろしい。」
「そのような物。」
「近づけるでない。」
「一文字も読む必要はない。」
徐福は深く頭を下げる。
「畏まりました。」
その瞳だけが。
静かに笑っていた。
さらに波紋が広がる。
八咫烏の刺客たちが京へ散っていく。
「聞いたか。」
「崇徳上皇が。」
「呪いをかけたらしい。」
「帝も。」
「民も皆殺しじゃ。」
「恐ろしい。」
「大魔縁になるぞ。」
噂は。
瞬く間に都中へ広がっていった。
⸻
再び。
讃岐。
崇徳は写経を書き続けている。
徐福が帰ってきた。
「待っておった。」
「徐福。」
「余の祈りは。」
「届いたのか。」
徐福は跪く。
肩を震わせる。
涙を流す。
「畏れながら……。」
「一文字も。」
「読まれませなんだ。」
「呪いであると。」
「呪詛であると。」
「返されました。」
崇徳は言葉を失う。
「そして。」
「京では。」
「上皇様が。」
「帝も民も皆殺しにする呪いをかけたと。」
「そのような噂が……。」
徐福は地へ額を擦りつける。
「わたくしの。」
「力不足にございます……。」
崇徳は静かに目を閉じた。
「……そなたの。」
「せいではない。」
「徐福。」
「よく。」
「やってくれた。」
その瞬間だった。
崇徳の背後。
誰にも見えぬ闇。
黒龍が。
静かに口を開く。
徐福だけが。
土下座したまま。
口元を僅かに歪めた。
「順調でございます。」
誰にも聞こえぬほど小さく。
その声だけが。
闇へ溶けていく。
崇徳の頬を。
血の涙が伝った。
「悔しい。」
「悔しい。」
「悔しい……!」
床を掻く。
爪が剥がれる。
なお掻き続ける。
「余の。」
「祈りが。」
「呪いだと……。」
「何故だ。」
「余は。」
「ただ。」
「祈っただけではないか。」
その絶望へ。
黒龍が絡みつく。
「悲しかったな。」
「誰も。」
「お前の祈りを。」
「受け取らなかった。」
「ならば。」
「祈りを捨てよ。」
「余は……。」
「余は……。」
長い沈黙。
そして。
崇徳は静かに舌を噛み切った。
血が石畳へ落ちる。
その血で。
一枚の書状を書き始めた。
「許さぬ。」
「祈りなど。」
「届かぬ。」
「我は。」
「大魔縁なり。」
白銀の世界は静かに消えていく。
現実へ戻る。
崇徳天皇は震えていた。
「……違う。」
「違う。」
「違う……。」
「余は。」
「知らぬ。」
「こんなことは。」
澄華は静かに八咫鏡を下ろす。
「これが。」
「あなたの。」
「本当の歴史です。」




