第九話 届かなかった祈り
暗闇だった。
どこまでも。
果てしなく。
黒い世界。
その中心で、一人の男が静かに座っている。
白髪。
痩せた身体。
深く刻まれた皺。
その瞳には、怒りではなく。
どうしようもない悲しみだけが残っていた。
――崇徳天皇。
いや。
まだ。
この頃の余は、大魔縁などではなかった。
⸻
幼い頃から。
余の声を聞く者はいなかった。
誰もが。
余ではなく。
余の血筋を見た。
余ではなく。
余の立場を見た。
余ではなく。
余という駒を見た。
「こちらへ。」
「こちらへ。」
そうして。
気が付けば。
余は帝となり。
気が付けば。
余は戦の旗印となっていた。
余は望んではおらなんだ。
争いなど。
誰も傷付いてほしくなどなかった。
それでも。
多くの者が。
余のために剣を取り。
余のために命を落とした。
その血は。
今も忘れられぬ。
⸻
敗れた。
余は敗れた。
帝の血を引く者でありながら。
流された。
遥か讃岐の地へ。
京の空は。
二度と見ることは叶わぬ。
誰もいない。
風だけが吹いていた。
⸻
余は。
髪を落とした。
名誉も。
執着も。
すべて捨てようと思った。
仏の教えを学び。
朝には経を読み。
夜には筆を執る。
一文字。
また一文字。
余のために死んでいった者たちへ。
この国へ。
京の都へ。
そして。
名も知らぬ民たちへ。
せめて安らぎがありますようにと。
願い続けた。
一年。
二年。
筆は止まらなかった。
指は墨に染まり。
爪は割れ。
肩は上がらなくなっても。
余は書き続けた。
これは。
余の贖罪だった。
余にしかできぬ。
最後の祈りだった。
⸻
ある日。
一人の男が訪れた。
黒い装束。
静かな微笑み。
「見事なお経にございます。」
男は深く頭を下げた。
「八咫烏大長老、徐福にございます。」
「これほどの祈り。」
「朝廷もきっと、お心を動かされましょう。」
「この徐福。」
「命に代えましても。」
「必ず京へ届けてまいります。」
余は。
心から安堵した。
ようやく。
ようやく。
帰れるのかもしれぬ。
京へ。
もう一度だけ。
⸻
数か月後。
徐福は戻ってきた。
その顔は。
あまりにも暗かった。
「……どうした。」
「徐福。」
「都へは。」
「届けてくれたのであろう。」
徐福は答えない。
ただ。
静かに震えていた。
「畏れながら……。」
「なんとか。」
「朝廷へお届けいたしました。」
「しかし……。」
言葉が止まる。
「申せ。」
「……呪いである、と。」
「呪詛である、と。」
「恐れられました。」
余は。
何を言われたのか。
理解できなかった。
「一文字も。」
「読まれることなく。」
「返されてしまいました。」
静寂。
「その噂は。」
「京中へ広がっております。」
「崇徳上皇は。」
「帝も。」
「民も。」
「皆殺しにする呪いをかけておる、と。」
徐福は地に額をつけた。
「この徐福。」
「力及ばず。」
「申し訳ございませぬ……!」
涙が。
石畳へ落ちる。
余は。
返す言葉を失った。
やがて。
震える声で。
ようやく呟く。
「……そなたの。」
「せいではない。」
「徐福。」
「よく。」
「やってくれた。」
だが。
胸の奥で。
何かが。
音を立てて壊れた。
「余の……。」
「祈りが。」
「呪い……。」
「だったというのか。」
その場へ崩れ落ちる。
指が地を掻く。
爪が剥がれる。
涙は。
いつしか。
赤く染まっていた。
「悔しい。」
「悔しい。」
「悔しい……!」
「何故だ。」
「余は。」
「ただ。」
「祈っただけではないか。」
「何故。」
「誰も。」
「余の声を。」
「聞いてはくれぬのだ。」
その叫びだけが。
讃岐の空へ。
虚しく響いていた。
――その夜。
誰も知らぬところで。
闇が。
静かに近づいていた。




