第八話 銀の巫女と大魔縁
月乃瀬神社。
夏の終わりを告げる風が、静かに境内を吹き抜けていた。
社殿の前。
月乃瀬澄華は、一人夜空を見上げている。
白銀の瞳は月を映し、そこには迷いはなかった。
石段を、軽い足取りで登ってくる男がいる。
「こんばんは、鏡の巫女さん。」
安倍天明だった。
相変わらず細い狐目。
着物姿の陰陽師は扇子を肩へ乗せ、どこか楽しそうに笑う。
「因幡ちゃん、やってもうたで。」
澄華は穏やかに微笑んだ。
「……雷切ですね。」
「せや。」
天明は何度も頷く。
「まさか一週間で継承してしまうとは思わへんかった。」
「ほんま、とんでもない子や。」
澄華は静かに目を閉じる。
「……やっぱり。」
「因幡さんには、最初から秘めた才能がありました。」
「努力を続けられる人に、才能がないはずありません。」
「それがよう言えるわ。」
天明は優しく笑った。
「でもな。」
「今度は君の番や。」
懐から一枚の霊符を取り出す。
白い紙が夜風に舞った。
「──開け。」
その一言だけだった。
空間が歪む。
石畳の上に紫色の光が円を描く。
現れたのは鳥居でも神社でもない。
現世と霊界を繋ぐ、陰陽道の門。
「ほな、行きましょか。」
澄華は静かに頷き、門をくぐった。
──瞬間。
景色が変わる。
八王子。
人気の消えた夜の街。
ネオンだけが静かに瞬いていた。
……いや。
違う。
一つ。
また一つ。
街の灯りが消えていく。
信号は赤のまま止まり。
風が止み。
虫の声さえ消えた。
世界そのものが息を潜める。
その中心。
街灯の上に、一人の老人が立っていた。
白髪。
痩せ細った身体。
黒い法衣。
その背後から噴き出すのは、底知れぬ怨念。
日本三大怨霊。
崇徳天皇。
──大魔縁。
「…………来たか。」
地を這うような低い声が響く。
「鏡の巫女よ。」
「待ちわびたぞ。」
静寂。
「長い。」
「長い。」
「長い。」
「長い。」
「百年。」
「千年。」
「長い……!」
その一言ごとに、大気が軋む。
「お前の八咫鏡があれば。」
「我はすべてを見通せる。」
「神すら欺ける。」
「喜んで。」
「我の力の礎となるがよい。」
澄華は一歩だけ前へ出る。
その表情は、どこまでも穏やかだった。
「崇徳天皇。」
「あなたは、あまりにも長い間。」
「苦しみ続けてきました。」
「私は。」
「あなたを、その恨みも。」
「悲しみも。」
「苦しみも。」
「すべて解放するために来ました。」
白銀の瞳が静かに輝く。
「ですが。」
「この八咫鏡だけは、お渡しできません。」
世界が止まる。
次の瞬間。
「小癪なぁぁぁぁッ!!」
怨念が爆発した。
黒い霧が夜空を覆い尽くす。
崇徳天皇はゆっくり右手を掲げる。
「見せてやろう。」
「人というものが、どれほど脆い存在か。」
掌から、無数の黒い鎌が生まれた。
「──魔縁ノ鎌・千断。」
夜空を埋め尽くす黒い刃。
それは街中へ降り注ぐ。
恋人。
夫婦。
親子。
兄弟。
友。
師弟。
あらゆる”縁”へ。
黒い鎌が突き刺さった。
「あなたなんて大嫌い!」
「もう顔も見たくない!」
「離婚だ!」
「親なんか知らない!」
「先生なんて最低だ!」
悲鳴。
怒号。
泣き声。
街中の絆が、一瞬で引き裂かれていく。
安倍天明は青ざめた。
「うわぁ……。」
「怖い怖い。」
「鎌やら飛んで。」
「今度は矢まで飛んできそうや。」
「ワシ、サポート役やし。」
霊符を一枚放る。
「ほな、後は頼んだで。」
その姿は煙のように消えた。
澄華は静かに弓を構える。
月光が八咫鏡を照らす。
白銀の光が、一筋の矢となった。
「月読命。」
「どうか、人々の願いを。」
「もう一度。」
「未来へ。」
白銀の矢が夜空へ放たれる。
「──月花鏡千里眼・結縁ノ矢。」
一本。
また一本。
光の矢は黒い鎌を追い越していく。
断ち切られた縁。
砕けた想い。
失われた絆。
そのすべてを、月光が静かに結び直していく。
黒き怨念は、縁を断ち。
白き祈りは、縁を結ぶ。
神話は終わっていない。
人が祈り続ける限り。
八王子の夜空で。
新たな神話が、静かに幕を開けた。




