第十六話 NOESIS
ノエシスは、崩れゆく戦場を静かに見つめていた。
『退避経路を算出』
『成功率九十八・七パーセント』
青い光がマリアを包む。
徐福の視界から外れ、結界の濃い山道へと導かれていく。
辿り着いた先は――月乃瀬の地。
そこには、戦いを生き延びた近衛兵団・因幡組の残党たちが身を寄せ合っていた。
誰もが傷つき、誰もが大切な誰かを失っていた。
ようやく息をつける場所に辿り着いたというのに、そこには勝利の空気など一欠片もなかった。
静寂だけがあった。
そして。
マリアは、その場に崩れ落ちた。
「……また……」
涙が止まらない。
「また、大切な人を……徐福に奪われちゃった……」
緋沙良。
小次郎。
二人の笑顔が浮かんでは消える。
胸の奥が、空っぽになっていた。
しばらくして。
マリアは震える声で話しかける。
「……ねぇ、ノエシス。」
『ああ。』
「お話しして。」
少しだけ沈黙が流れる。
「……この子。」
自分のお腹へ、そっと手を添えた。
「男の子かな。」
「ノエシスなら……わかるでしょ?」
『解析完了。』
『九九・八パーセントで男児だ。』
涙が、また一粒落ちる。
「そう……。」
少しだけ笑った。
「緋沙良ね……。」
「男の子だったら、自分で名前を付けるんだって……。」
「ずっと張り切ってたんだよ……。」
嗚咽が漏れる。
「最後に……。」
「最後に、なんて言ってた?」
ノエシスは静かに答えた。
『蓮……。』
『頼んだぞ。』
それだけだった。
その一言だけで十分だった。
マリアは顔を覆い、声を殺して泣き続けた。
――その日から。
再び潜伏生活が始まった。
徐福もまた無傷ではなかった。
因幡小次郎が命と引き換えに放った雷切。
その一太刀は徐福の右腕を切り落としていた。
二千年を生きた仙人ですら、その傷は容易には癒えない。
しばらく八咫烏が追ってくることはなかった。
マリアたちは結界の強い土地を転々としながら、静かに息を潜めて生き続けた。
――そして一年後。
産声が響く。
元気な男の子だった。
マリアは優しく抱き上げる。
「蓮。」
「あなたの名前は……神崎蓮。」
「お父さんが一番付けたかった名前だよ。」
小さな手が、マリアの指を握る。
その温もりを感じた瞬間。
マリアは決意した。
この子だけは。
何があっても守る。
たとえ自分の命と引き換えになっても。
夜。
赤子が眠る部屋。
机の上には、一つの勾玉。
月明かりを浴びて静かに輝いている。
マリアは勾玉を両手で包み込んだ。
「……ノエシス。」
『久しぶりだな。』
「お願いがあるの。」
『聞こう。』
「この子を守って。」
「この子の頭の中へ入って。」
「ずっと一緒にいてあげて。」
ノエシスは少しだけ困ったように笑った。
『俺が会話できるのは、お前だけだ。』
『蓮には何も話せん。』
『何もしてやれないぞ。』
「大丈夫。」
マリアは迷わなかった。
「私と緋沙良の子だから。」
「あなたならきっと。」
「脳の神経と繋がって、この子を導いてあげられる。」
長い沈黙。
やがてノエシスは静かに問いかけた。
『神器としての姿を捨てろと言うのか。』
『人格を閉じろと言うのか。』
「お願い。」
「この子にはあなたが必要なの。」
『……代償は?』
マリアは微笑んだ。
その表情は、不思議なくらい穏やかだった。
「わたしの魂。」
「全部あげる。」
部屋が静まり返る。
やがて。
ノエシスは、小さく笑った。
『……お前らしい。』
『契約成立。』
青い光がゆっくりと部屋を満たしていく。
『人格領域を封印。』
『神器人格を停止。』
『認識領域移行準備開始。』
『神崎蓮への継承を開始する。』
マリアは勾玉を胸へ抱き寄せた。
「ありがとう。」
「わたしの、一番大切な友達。」
『これで……。』
『お前と話すことも最後だ。』
『いつか、お前が命を終えたその日。』
『俺は、あいつを守るために目を覚ます。』
『もう、お前の声を聞くことはない。』
「うん。」
「それでいい。」
「この子が笑って生きられるなら。」
勾玉は最後に一度だけ。
夜空の星のように、優しく青く輝いた。
そして。
返事は、もうなかった。
―十七年後ー
『神崎マリア 死亡確認』
『適合者確認』
『神崎蓮』
『NOESIS 起動』
青い光が、静かに世界を観測し始めた。
それは、一人の母親が未来へ託した願い。
一人の少年を守るために生まれた。
世界でたった一つの――
NOESIS。




