第六話 少女の剣士
風鈴が鳴っていた。
ちりん。
ちりん。
夏の終わりを告げるような、どこか寂しい音色だった。
因幡小次郎は縁側に腰を下ろし、静かに茶を啜っている。
隣には愛刀、雷切。
ただそれだけの光景。
しかし、その老人が一国を震え上がらせる剣豪であることを知る者は少ない。
そんな午後だった。
一人の少女が現れた。
黒髪。
小柄な身体。
年の頃は十二、三ほど。
どこにでもいそうな少女だった。
少なくとも。
普通ならば。
「なんじゃ、お嬢ちゃん」
小次郎は笑う。
「迷子かの?」
少女も笑った。
「ううん」
風鈴を見上げる。
「この風鈴の音が綺麗だったから」
嘘だった。
少女の名はまだない。
八咫烏の刺客。
徐福の命を受けてここへ来た。
――あの老人も子供なら油断するだろう。
そう言われた。
少女自身もそう思っていた。
これまで何人もの標的を仕留めてきた。
大人も。
武術家も。
剣士も。
誰一人として自分を見抜けなかった。
だから。
今回も同じはずだった。
少女は一歩近づく。
二歩。
三歩。
射程距離。
袖口から小刀が滑り落ちる。
そして。
閃いた。
――獲った。
そう思った。
だが。
斬れない。
少女の瞳が見開かれる。
目の前にいたはずの老人が消えていた。
「どこ――」
振り向く。
「ここじゃよ」
真後ろだった。
少女は飛び退く。
いつ移動したのか。
見えなかった。
まるで最初からそこにいたかのように。
「ふむ」
小次郎は少女を眺める。
「剣士か」
そう言って。
一本の木剣を差し出した。
「ほれ」
少女は警戒した。
「なんで?」
「剣士なら剣で語れ」
小次郎は笑う。
「打ち込んでみい」
◇
少女は走った。
全力だった。
これまで誰にも止められなかった剣。
その一撃を放つ。
しかし。
空を斬る。
小次郎は半歩だけ動いていた。
たった半歩。
それだけで全てが外れる。
もう一度。
さらに速く。
さらに鋭く。
だが届かない。
斬れない。
掠りもしない。
「まだまだじゃ」
首筋に扇子が触れる。
死。
それを意味していた。
少女は歯を食いしばる。
再び踏み込む。
「まだまだじゃ」
また死んだ。
「まだまだじゃ」
また死んだ。
「まだまだじゃ」
また死んだ。
何十回。
何百回。
時間の感覚さえ消えていく。
それでも届かない。
目の前にいる老人は汗一つかいていない。
少女だけが息を切らし。
少女だけが傷つき。
少女だけが必死だった。
なぜだ。
なぜ当たらない。
なぜ見える。
なぜ避けられる。
少女の手が震え始める。
怒りではない。
恐怖でもない。
悔しさだった。
「この辺で終わりじゃの」
小次郎が扇子を閉じる。
少女は荒い息を吐きながら睨みつけた。
初めてだった。
こんなにも圧倒されたのは。
小次郎は縁側へ戻ろうとして。
ふと立ち止まる。
「しかしのう」
老人の声が少しだけ低くなる。
「おぬしが大人になって」
「再びわしへ斬りかかってきた時――」
少女は息を呑んだ。
「次はないぞ」
その言葉には。
脅しではない。
剣士としての覚悟があった。
「剣は人を殺すためだけにあるものではない」
「悪に染まるな」
「剣の道を歩め」
風鈴が鳴る。
ちりん。
ちりん。
少女は立ち尽くしていた。
言葉が出ない。
負けたことはあった。
叱られたこともあった。
だが。
完敗したことは。
一度もなかった。
ぽたり。
涙が落ちる。
悔しい。
悔しい。
悔しい。
少女はその場にしゃがみ込んだ。
子供のように。
声を上げて泣いた。
その日。
八咫烏最強の剣士となる少女は、
初めて敗北を知った。
後に――
『剣の王』
村雨響香と呼ばれる少女は。
生涯忘れることのない夏の日を、
ここで過ごしていた。




