第五話 神有月
出雲の夜は静かだった。
山々を撫でる風だけが、遠くで葉を揺らしている。
神崎マリアは高層ビルの屋上に腰を下ろし、小型ドローンの映像を確認していた。
青白いホログラムが夜空に浮かぶ。
「どう?」
マリアが問いかける。
『現在周辺三キロ圏内に高い敵意反応なし』
ノエシスが答える。
「そう。今日は平和ね」
『いや』
珍しくノエシスの返答は歯切れが悪かった。
『一名ほど非常に怪しい人物を確認』
映像が拡大される。
真っ黒な拳法着。
真っ黒な靴。
真っ黒な帽子。
堂々と歩いていた。
「人を見た目で判断しちゃ駄目よ」
『どう見ても怪しい』
「ファッションかもしれないじゃない」
『絶対違う』
マリアは苦笑した。
「緋沙良ならどう思うかしら」
そう言って振り返る。
誰もいない。
「……あ」
嫌な予感がした。
「いない!」
◇
三百メートル上空。
緋沙良命は笑っていた。
「見つけた」
次の瞬間。
彼はビルの縁から飛び降りた。
普通なら即死。
だが彼は壁を蹴る。
さらに蹴る。
さらに蹴る。
落下を加速へ変換しながら、まるで重力と遊ぶように街を駆け抜ける。
そして。
黒衣の男の前へ着地した。
轟音。
アスファルトが砕け散る。
男は目を見開いた。
緋沙良は笑顔だった。
「やぁ」
友人へ話しかけるような口調。
「怪しいチャイニーズマフィアかな?」
一歩近づく。
「それとも八咫烏かな?」
さらに近づく。
「どっちにしてもぶちのめすから安心してくれ」
男の顔が歪む。
「貴様に名乗る必要などない!」
闘気が膨れ上がる。
「我が八極拳で粉砕してくれるぞ!」
緋沙良は肩を竦めた。
「あー」
納得したように頷く。
「八咫烏なのね」
男が踏み込む。
地面が爆ぜた。
震脚。
発勁。
人体破壊のためだけに研ぎ澄まされた武術。
掌底。
肘打ち。
崩拳。
至近距離から放たれる連撃。
普通の人間なら一撃で骨が砕ける。
だが。
全て。
緋沙良へ命中した。
確かに当たった。
確かに急所へ入った。
男は勝利を確信した。
そして。
「ん?」
緋沙良が首を傾げた。
「いや、だから?」
男の顔色が変わる。
「なっ……!」
「朝飯前だな」
緋沙良は笑う。
「おれが毎日どんなジジイと稽古してると思ってんだ?」
遠くの屋上。
因幡小次郎が煙管を咥えながらため息をついた。
「さて」
緋沙良が右目へ触れる。
「せっかくだし」
青い光。
夜の闇を裂くように右目が輝く。
「おれは敵の技を見れば覚えられる」
「敵じゃなくてもいい」
「見たものは全部吸収する」
男が息を呑む。
「そして――」
緋沙良は笑った。
少年のように。
王のように。
「俺は神の中の王だ!」
右目が蒼く燃え上がる。
「神有月起動!」
空気が震えた。
「いくぜ」
「毘沙門天!」
一撃。
「臨!」
二撃。
「兵!」
三撃。
「闘!」
四撃。
「者!」
五撃。
「皆!」
六撃。
「陣!」
七撃。
「烈!」
八撃。
「在!」
九撃。
「前!」
男の身体は地面へ落ちることすら許されなかった。
連撃の衝撃で空中へ縫い付けられる。
最後。
緋沙良は跳躍した。
轟ッ!!
踵落とし。
男は隕石のように地面へ叩き落とされた。
静寂。
完全決着だった。
緋沙良は遠くのビルを見上げる。
そこにはマリアがいた。
ニッ。
ピースサイン。
「決まったぜぃ!!」
◇
数分後。
マリアは怒っていた。
「わざわざ最前線まで行ったら危ないじゃない!」
「囲まれたらどうするの!」
緋沙良は笑う。
「バカって言う方がバカだー!」
「それより!」
びしっと指を突き付ける。
「今の録画した!?」
「毘沙門天だぞ!?」
「俺の近接戦最強奥義だぞ!?」
「してないわよ!」
「えええええぇぇぇ!?」
小次郎が呆れたように言った。
「もう少し静かに仕留められんのかの」
「派手な方がかっこいいだろ!」
緋沙良は胸を張る。
「しかも八極拳覚えた!」
「お得!」
「敵も倒せる!」
「技も増える!」
「最高!」
マリアは額を押さえた。
「その能力、勉強に使えばいいのに」
「それは対応してない」
即答だった。
小次郎が吹き出す。
「先代と同じ言い訳しとるわい」
「血筋だから仕方ない!」
「威張ることか!」
笑い声が夜空へ溶けていく。
マリアはふと空を見上げた。
夏の大三角。
織姫と彦星を結ぶ光。
神々が集う国、出雲の空。
緋沙良は相変わらずだった。
危険な場所へ真っ先に飛び込み。
勝手に敵を倒し。
勝手に必殺技へ名前を付ける。
本当に困った皇子だ。
けれど。
そんな背中を見ていると。
なぜだろう。
未来はきっと大丈夫だと。
そう思えてしまうのだった。
神有月。
神々が出雲へ集う季節は、
もうすぐそこまで来ていた。




