第二話 黒き来訪者
雨は止まなかった。
熊野の山々を覆う雲は低く垂れ込め、境内に咲く紫陽花は重たげに首を垂れている。
その日。
神崎マリアは社の裏で掃除をしていた。
箒を動かしながら鼻歌を歌う。
いつもと変わらない午後。
そのはずだった。
――異変に気付いたのはノエシスだった。
『……』
突然、勾玉が沈黙する。
マリアは首を傾げた。
「どうしたの?」
返事はない。
だが次の瞬間。
今まで聞いたこともないほど緊迫した声が響いた。
『マリア』
「え?」
『恐ろしいものが近付いている』
背筋が凍る。
ノエシスがこんな声を出したことは一度もなかった。
『すぐに俺を持て』
『そして外へ逃げろ』
「な、何が――」
『急げ!!』
叫びにも似た声だった。
マリアは反射的に勾玉を掴む。
その時だった。
社の表から。
誰かの悲鳴が聞こえた。
――母の声だった。
「お母さん!?」
マリアは駆け出した。
だが社の角まで来たところで足が止まる。
そこにいた。
黒づくめの男。
長い黒髪。
雨に濡れた白髪混じりの髪。
顎髭。
年齢すら分からない顔。
若くも見える。
老人にも見える。
ただ一つだけ確かなことがあった。
その男が立っているだけで、空気がおかしかった。
まるで世界そのものが歪んでいる。
男の足元には。
母が倒れていた。
白い巫女装束が真っ赤に染まっている。
「……っ」
声が出なかった。
恐怖が喉を塞いでいた。
ノエシスが震えるように呟く。
『あれは……』
『馬鹿な……』
『何故ここにいる……』
「知ってるの?」
『あの男は徐福』
『八咫烏の長老だ』
マリアは息を呑んだ。
八咫烏。
神器を守る者たちの名。
だが何故。
何故その長老が――。
その時。
社の奥から父が現れた。
「これは徐福長老ではありませんか」
穏やかな声だった。
だがその視線はすぐに妻へ向く。
血溜まり。
倒れ伏す身体。
そして徐福。
父の顔色が変わった。
「……どういうことです」
徐福は微笑んだ。
「見ての通りだ」
雨音の中。
男の声だけが異様に響く。
「勾玉を頂きに来た」
「なぜ……!」
「腐りきったこの世を変えるためだ」
「そんなことが許されるはずがない!」
徐福は少しだけ笑った。
「弟子の分際で随分と生意気になったな」
次の瞬間。
徐福の右腕が父の腹を貫いていた。
「あ……」
父の身体が宙へ浮く。
血が雨と混ざり合う。
徐福はまるで虫でも摘まむように父を持ち上げた。
「安心しろ」
「貴様の妻も後で送ってやる」
黒い炎が右腕に宿る。
それを見た父は苦しみながらも笑った。
そして心の中でノエシスへ語りかける。
『勾玉様』
『マリアを……』
『どうか……』
『お守りください』
『分かっておる』
ノエシスは静かに答えた。
『今、共にいる』
父は懐から一枚の霊符を取り出した。
黒炎を写し取る。
そして。
燃え盛る社へ投げ込んだ。
轟音。
炎が天を突く。
神社全体が燃え始めた。
「お父さん!!」
マリアは叫んでいた。
徐福が振り向く。
初めてその視線がマリアを捉えた。
「ほう」
その目が細まる。
「娘か」
「なんたる霊性だ」
そして。
マリアの胸元を見た。
「勾玉か」
徐福は笑う。
「それを渡せ」
「命だけは助けてやろう」
父が地面へ落ちる。
それでも。
這いながら徐福の足へしがみついた。
「逃げろ……」
「マリア……」
徐福は無言で踏みつける。
一度。
二度。
三度。
それでも父は離れない。
「渡しては……ならない……」
マリアは動けなかった。
恐怖で身体が凍り付いていた。
世界が終わる音だけが聞こえていた。
その時だった。
――轟雷。
天が裂けた。
白い光が境内を照らす。
気付いた時には。
マリアは誰かに抱え上げられていた。
そこに立っていたのは一人の侍だった。
長い白髪。
鋭い眼光。
腰には一本の刀。
「煙を見て飛んできたが……」
男は静かに呟く。
「間に合わなかったか」
父の目が見開かれる。
「小次郎……」
因幡小次郎。
その名を聞いた瞬間。
男は静かに頷いた。
「承知した」
父は笑った。
最後の力を振り絞る。
「頼む……」
「マリアを……」
再び雷鳴。
そして。
次の瞬間。
二人の姿は消えていた。
徐福は目を見開く。
「何だと……」
怒りが境内を震わせる。
燃え盛る社。
降り続く雨。
そして。
徐福の足元で。
神崎家の当主は静かに息絶えた。
徐福は闇の中で呟く。
「許さんぞ……」
「必ず見つけ出してやる」
その目には狂気が宿っていた。
「勾玉は必ず我が物とする」
雨だけが。
全てを洗い流すように降り続いていた。




