第一話 NOESISの名をもつもの
第二章 神崎マリア編ー出雲霊戦記ー
第二章 神崎マリア編 NOESIS
第一話 NOESISの名を持つもの
あれは今から二十五年前。
梅雨の雨が熊野の山々を静かに濡らしていた頃の話だ。
境内へ続く石段の脇には紫陽花が咲き誇り、薄紫と青の花々が雨粒をまとって揺れている。
神崎マリア、十三歳。
後にNOESISを生み出すことになる少女は、その頃まだ、どこにでもいる少し変わった巫女だった。
「ただいまー!」
学校から帰るなり、マリアは社の奥へ駆け込む。
そこには代々神崎家が管理を任されてきた神器――八尺瓊勾玉が祀られていた。
普通の人間にはただの勾玉にしか見えない。
けれどマリアには違った。
彼女には神器の声が聞こえる。
「今日はね、生物の授業があったんだけどさ」
勾玉の前へ腰を下ろし、鞄を放り出しながら言う。
「先生の話してた内容、前に聞いたことある話ばっかりだったんだよねー」
すると頭の中へ不機嫌そうな声が響いた。
『お前はいつも俺を何だと思ってるんだ』
「勾玉さん?」
『神器だ』
「うん」
『神器様だ』
「うんうん」
『便利な学習機械じゃねぇ!!』
社に響くほどの勢いで怒鳴られた気がした。
マリアは声を上げて笑う。
「別にいいじゃない。減るもんじゃないし」
『減る』
「減らないよ」
『気分が減る』
「でも聞いたらいつも得意そうに説明してくれるじゃん」
『……』
図星だった。
勾玉は黙り込む。
マリアは勝ち誇ったように笑った。
「ほらね」
『ぐぬぬ……』
神器と巫女の会話とは到底思えない。
もし父が見たら頭を抱えるだろう。
しばらく沈黙が続いたあと、勾玉がぼそりと言った。
『なぁ』
「ん?」
『勾玉さんって呼ぶのやめないか』
「え?」
『俺にも名前とかないのか』
「今さら!?」
『今さらだ』
マリアは少し考える。
確かに毎日会話しているのに、ずっと勾玉さんでは芸がない。
「じゃあ名前つけてあげようか?」
『変な名前にするんじゃねぇぞ』
「大丈夫大丈夫」
そう言って立ち上がる。
向かった先は父の書斎だった。
神崎家の当主であり、熊野大社の宮司を務める父の部屋。
壁一面に古今東西の書物が並んでいる。
神話。
歴史。
宗教。
哲学。
十三歳の少女が読むには難解すぎる本ばかりだ。
だがマリアは、その大半を理解していた。
本棚を見渡し、一冊の本を引き抜く。
ページをめくりながら目を輝かせた。
「あった」
『何だ?』
「これ」
マリアは本を掲げる。
エトムント・フッサール。
現象学。
その中に書かれていた一つの言葉。
「NOESIS」
『ほう』
「意識の働きって意味なんだって」
『認識する主体の作用か』
「そうそう!」
『悪くないな』
「でしょう?」
マリアは満面の笑みを浮かべた。
「よろしくね」
小さな手で勾玉を撫でる。
「ノエシス」
雨音だけが静かに響く。
神器は少しだけ照れたように沈黙した。
その名が。
やがて人類の叡智を宿すシステムの名となり。
神々と怨霊。
王と英雄。
そして運命そのものへ抗う力の名になることを。
この時のマリアはまだ知らない。
――その頃。
熊野の深い山中。
雨に紛れるように、一つの黒い影が動いていた。
「見つけた」
低い声が闇へ溶ける。
視線の先にあるのは、八尺瓊勾玉を祀る神社。
神器を守る一族。
そして、十三歳の巫女。
世の中には表がある。
そして裏がある。
八尺瓊勾玉を管理する八咫烏もまた例外ではない。
表の守護者たち。
そして――。
神器を奪わんとする裏の者たち。
雨はなお降り続いていた。
まるでこれから始まる惨劇を知っているかのように。




