第十一話 月花鏡千里眼
満月が空を支配していた。
雲はない。
星すら霞む。
白銀の光だけが夜を満たしている。
月乃瀬神社。
その神域の中を一つの影が駆けた。
月乃瀬澄華。
白い巫女装束が月光を受けて淡く輝く。
枝から枝へ。
風よりも軽く。
まるで月明かりそのものが森を跳ねているかのようだった。
そして。
神社の屋根へ降り立つ。
満月を背負うように。
静かに。
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「そんな狙いやすい場所に来てくれるとはありがたいねぇ」
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那須悠一が笑った。
巨大な和弓。
与一の弓。
歴史に名を残した魔弓。
源平合戦。
元寇。
戦国時代。
数多の戦場を渡り歩き。
数多の英雄を生み出した弓。
だが。
長すぎる年月は弓を歪ませた。
勝利。
武功。
名誉。
血。
戦。
人間の欲望を吸い続けた結果。
その弓はいつしか戦場そのものとなった。
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「どんな小さな的でも外さない」
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弦が鳴る。
放たれた矢は夜風を裂いた。
速い。
普通の人間なら見えない。
だが。
澄華は静かだった。
天之月弓を引く。
放つ。
乾いた音。
空中で火花が散る。
与一の矢が砕けた。
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「は?」
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悠一の笑みが止まる。
二射。
三射。
四射。
すべて撃ち落とされる。
夜空に浮かぶ流星を摘み取るように。
簡単に。
当然のように。
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「ありえねぇ……」
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月花鏡読心術。
感情。
思考。
呼吸。
筋肉。
殺意。
選択。
未来。
八咫鏡は全てを映す。
そして今夜は満月。
月読の加護が最も強く降りる夜だった。
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「矢を……矢で落としてるのか……?」
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神社の屋根を見る。
そこにはもう誰もいない。
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「逃げたかぁ!!」
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勝ち誇る。
だが。
返事は森の奥から聞こえた。
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「怖気づいているのはあなた」
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右。
矢。
左。
矢。
背後。
矢。
上空。
矢。
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「っ!?」
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避ける。
避ける。
避ける。
だが。
どこから来るのか分からない。
気配がない。
殺気もない。
存在すら感じない。
なのに。
矢だけが飛んでくる。
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「なんなんだよ……!」
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森を見渡す。
誰もいない。
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「化け物か……!」
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その言葉に。
澄華は少しだけ悲しそうに目を閉じた。
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「違う」
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静かな声。
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「見えているだけ」
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悠一は後退した。
さらに後退する。
森を抜ける。
山を越える。
高台へ。
もっと。
もっと。
もっと遠くへ。
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五キロ。
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そこまで来てようやく息を吐く。
双眼鏡を取り出す。
神社は豆粒ほどだった。
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「ここなら……」
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笑う。
勝利を確信する。
双眼鏡越しに神社を見る。
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白い影。
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月乃瀬澄華。
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その瞬間。
寒気が走った。
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こちらを見ている。
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五キロ先から。
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「気のせいだ……」
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そう呟きながら弓を引く。
放つ。
これで終わり。
そう思った。
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だが。
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神社の屋根。
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澄華も矢を放った。
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轟音。
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空中で二本の矢が衝突する。
与一の矢が砕け散った。
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「な……」
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ありえない。
人間が見える距離じゃない。
だが。
澄華の両目は白銀に輝いていた。
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「言ったはずよ」
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風が吹く。
白銀の髪飾りが揺れる。
八咫鏡が輝く。
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「すべて見えていると」
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悠一の背筋が凍る。
そして。
初めて気づく。
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与一の弓が静かだった。
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いつも聞こえていた。
勝て。
射て。
殺せ。
もっと。
もっと。
もっと。
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それがない。
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何も聞こえない。
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静寂。
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与一の弓が。
恐怖していた。
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「やめろ……」
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悠一の声が震える。
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「おい……やめろ……」
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神社の屋根。
澄華は静かに目を閉じる。
満月が輝く。
夜空の月が。
巨大な八咫鏡のように世界を映していた。
森。
山。
川。
街。
空。
全てが鏡となる。
そして。
五キロ先。
震える男を映し出した。
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「見つけた」
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天之月弓を引く。
白銀の光が矢へ集まる。
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「月花鏡千里眼――」
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世界が静止する。
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「月読必中」
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祈りの声。
だが。
それは神への願いではない。
神への命令だった。
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「月読よ」
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「鏡よ」
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「穢れた魂よ」
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「この一矢で浄化したまえ」
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放たれる。
白銀の流星。
満月から零れ落ちた神罰。
空を裂く。
山を越える。
森を越える。
五キロを消し去る。
そして。
与一の弓を真っ二つに砕いた。
そして悠一の右肩に矢が刺さった。
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悠一の世界が止まる。
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頭の中が静かだった。
与一の囁きがない。
血への渇望もない。
勝利への執着もない。
ただ。
一つだけ理解した。
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「ああ……」
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震える声。
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「あの女は……」
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神ではない。
人でもない。
もっと別の何か。
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魂の極致。
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「あの女に……戦っちゃいけなかったんだ……」
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悠一は逃げた。
振り返らない。
ただ逃げた。
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神社の屋根。
満月を背負う澄華はその背中を見送る。
追わない。
浄化は終わった。
だが。
違和感だけが残る。
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「あの男じゃない」
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風が吹く。
鈴が鳴る。
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「もっと奥にいる」
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白銀の瞳が夜の彼方を見る。
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「魂を歪めているものが」
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徐福。
八咫烏。
神器。
戦争。
全ての糸がどこかへ繋がっている。
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月乃瀬澄華は満月を見上げた。
その姿は。
もはや弓道部の少女ではない。
月宮から現れた巫女。
月読の代行者。
魂の極致。
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「何かが動き始めている」
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白銀の瞳には。
まだ誰も知らない未来が映っていた。
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