リスボルン
リスボルンの街が見えてきたのは、日が傾きかけた頃だった。
緩やかな坂を下った先、低くて白い石壁に囲まれた街が広がっている。
門の向こうには、赤茶色の屋根が密集し、その向こうにきらりと光る水面が見えた。
「海、か」
潮の匂いが風に乗って流れてくる。
草の青臭さとはまるで違う。少し重くて、だが妙に食欲をそそる匂いだった。
「……港町だからな」
フォーゲンが短く答える。
門へ近づくにつれて、人の数が増えていく。
行商人らしき荷車、籠を抱えた女、酒瓶をぶら下げた男。
鎧姿の冒険者風の連中もちらほら見える。
門番がこちらを一瞥したが、ハモンドが軽く手を上げると、それだけで通された。
中へ入った瞬間、空気が変わった。
ざわめきと呼び込みの声が混ざり合い、どこかで魚が焼かれている香ばしい匂いが漂っていた。
「新鮮だぜ! 今朝上がったばかりだぞ!」
「安いよ安いよ! 塩漬け二つでこの値段だ!」
もう夕方だと言うのに、威勢のいい声が飛び交っている。
通りの両脇には露店が並び、魚や貝、見たこともない海の生き物が無造作に並べられていた。
氷の代わりに濡れた布がかけられている。
「……これは」
思わず口から漏れた。
油の弾ける音。
振り向けば、串に刺した魚を炙っている屋台があった。
表面はこんがりと焼け、脂がじわりと滲み出ている。
腹が鳴った。
「気に入ったか?」
フォーゲンがわずかに口元を緩める。
「ああ、気に入った」
長い地下牢生活で鈍っていた感覚が、一気に戻ってくる。
匂いも、音も、熱も――全てがやけに鮮明だ。
街の隅にある停車場で荷馬車が停まる。
俺も馬から降りた。
ラオスとフォーゲンは馬番に手綱を渡した。
「では、俺たちはこいつらを引き渡してくる」
ラオスが荷台に親指を向けた。
野盗たちはまだ気を失っていた。
「ウェイトリーさん」
「ん?」
「よろしければ、このあとお食事でもいかがです? 今回の件のお礼を、まだきちんとしておりませんので……」
にこやかな笑顔だが、その目はしっかりこちらを見ている。
ただの礼だけじゃないな、と一瞬でわかった。
「お礼ね……」
俺は一度、通りの方へ視線をやった。
おそらくハモンドは俺を護衛に使いたいのだろう。
その見定めと関係作り、といったところか……。
「あ、いい店を知ってたり?」
「ええ、ええ! 魚料理なら間違いのない店がございますとも!」
ハモンドは胸を張った。
フォーゲンがわずかに眉をひそめたのが、背中越しにわかった。
「……どうする?」と小声でラオス。
「構わんだろう、恩もある」とフォーゲンが短く返す。
「酒もある? リスボルンワインを飲んでみたいんだが……」
俺はわざとらしく言った。
ハモンドの目が一瞬だけ輝く。
「もちろんでございます! リスボルンの白は格別ですから。ちょうどいま出回っているのは当たり年の物ですよ」
「決まりだな」
俺は軽く笑った。
「じゃあ、案内してもらおうか」
「お任せください!」
「では、俺も同行します」と、ラオスがフォーゲンに目配せをした。
「ああ、頼む」とだけハモンドは返し、使用人らしき男たちにあれこれ指示を出した。
フォーゲンはその場に残り、野盗たちを見張っている。
おそらく、ギルドの人間が引き取りに来るのだろう。
「ささ、まいりましょう」と、ハモンドが先頭に立って歩き出した。
屋台で焼ける魚を横目に、俺はその後を追う。
陽が沈みかけていた。
* * *
案内された店は、通りの喧騒から少し外れた場所にあった。
木製の看板に、『白鱗亭』という文字と焼き魚の絵が雑に描かれている。
扉を開けると、温かい空気と香ばしい匂いが一気に流れ込んできた。
「いらっしゃい!」
威勢のいい声。
店内は思ったより広く、客でほぼ埋まっている。
笑い声と食器のぶつかる音が混ざり合い、妙に落ち着く騒がしさだった。
「どうぞ、こちらです」
ハモンドに案内され、奥の席に座る。
すぐに店員が注文を取りに来た。
「おすすめを適当に頼んでくれ。あと白ワインも」
俺が言うと、ハモンドは満足そうに頷いた。
「お任せを」
料理はすぐに運ばれてきた。
皿に盛られた白身魚のソテー。
表面はこんがりと焼け、皮目から脂がじわりと滲んでいる。
横には見たことのない香草と、軽く火を通した野菜。
グラスに注がれた白ワインは、淡く透き通った色をしていた。
「さぁ、どうぞ」
ハモンドが勧める。
俺はフォークを取り、一口。
――熱い。
舌に触れた瞬間、脂と塩気が一気に広がる。
外は香ばしく、中は驚くほど柔らかい。
「くっ……」
言葉が出なかった。
そのままワインを一口。
たまらん。
軽い酸味が口の中を流し、さっきの脂をすっと消していく。
残るのは、魚の旨味だけ。
「……最高だ」
ぽつりと漏れた。
「でしょう!」
ハモンドが嬉しそうに笑う。
もう一口。今度はゆっくり噛む。
香草の風味が後から広がっていく。
気づけば、皿は空になっていた。
「追加で頼んでもいいか?」
「もちろんでございます」
しばらくは会話も忘れ、無言で食った。
それで十分だった。
* * *
――同じ頃。
ギルドの建物の前で、フォーゲンは腕を組んで立っていた。
足元には縄で縛られた野盗たち。
「……これはまた派手にやったな」
出てきた職員が、倒れた連中を見て眉をひそめる。
「全員気絶、外傷なし、か……」
一人の手首を持ち上げ、脈を確認する。
「何があった?」
職員は顔を上げた。
「こいつらに襲われていたところを、通りすがりの魔術師に救われた」
「通りすがり?」と職員が笑う。
「で、そいつはどんな魔術を使った?」
「雷だったな」
職員はもう一度野盗たちを見た。
「殺さぬよう手加減したわけか……」
わずかに息を吐く。
「……相当な腕だな」
フォーゲンは何も言わなかった。
「名前は?」
「ウェイトリーと名乗っている」
職員はその名を口の中で転がすように繰り返した。
「覚えておこう」




