盗賊の男の娘は足を洗い、真っ当に生きる小説を書いて下さい!
夜明け前の街は、まだ灰色に沈んでいた。
濡れた石畳を、ひとりの少年が歩いている。いや、正確には「少年のように見える者」だ。細身で、柔らかな顔立ち。肩にかかる髪は短く整えられているが、どこか中性的な雰囲気を隠しきれていない。
名前はリオン。
かつては“盗賊のリオン”と呼ばれていた。
路地裏を自在に抜け、鍵のかかった扉を音もなく開け、貴族の金庫から宝石を抜き取る。影のように生き、影のように消える。それが彼のすべてだった。
だが、その夜は違った。
標的の屋敷で見たのは、泣きじゃくる子どもと、崩れかけた食卓だった。盗み出した金貨の袋を握りしめた瞬間、胸の奥に冷たいものが走った。
「これで……何を買うつもりだったんだろうな」
誰に言うでもなく呟いた声が、やけに耳に残った。
それから数日後、リオンは組織を抜けた。
当然、簡単には終わらなかった。裏切り者として追われ、かつての仲間からも命を狙われた。それでも彼は逃げ続けた。初めて「盗むためではなく、生きるために」足を動かした。
そして今。
彼は小さな町の外れにある工房の前に立っていた。
「……ここか」
錆びかけた看板には、こう書かれている。
――“修理工房アルト”
ドアを開けると、油と金属の匂いが広がった。
奥から出てきたのは、無骨な中年の男だった。腕まくりした両腕には、無数の傷と焼け跡がある。
「客か?」
リオンは一瞬、言葉に詰まった。
盗みの世界では、言葉は常に駆け引きだった。だがここでは違う気がした。
「……働かせてほしい」
男は目を細めた。
「理由は?」
リオンは少しだけ視線を落とした。
「……壊すことしか知らなかったからだ。今度は、直す側をやってみたい」
静寂が落ちた。
時計の針の音だけが、やけに大きく響く。
やがて男は鼻を鳴らした。
「手は?」
「器用だと思う」
「盗みの手でもか?」
その言葉に、リオンはわずかに肩を揺らした。
否定はできなかった。
だが、逃げもしなかった。
「……それでもいい」
しばらくして、男は工具を投げた。
「じゃあ、まずはこれを分解して組み直せ。壊すのは得意なんだろ?」
初めての“仕事”だった。
油にまみれ、歯車に指を切られながら、リオンは黙々と作業を続けた。壊すよりもずっと難しい。だが、不思議と嫌ではなかった。
夕方になった頃、男が完成した機械を見て言った。
「……悪くない」
それは、盗賊として生きていた頃、一度も聞いたことのない言葉だった。
リオンは、手の油を見つめた。
汚れているはずなのに、なぜか少しだけ軽かった。
その夜。
工房の屋根の上で、彼は町の灯りを眺めていた。
もう誰かの金庫を狙う必要はない。
もう誰かに追われる必要もない。
ただ、明日の仕事のことだけを考えればいい。
風が吹く。
かつて影だった少年は、静かに目を閉じた。
「……これでいいのかもしれないな」
答えはまだ出ていない。
だが確かに、彼は“足を洗った”のだった。




