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第98話 ミュリエの幻術

 翌朝、城門の前でグリムが待っていた。


 腕の打ち身は残っていたが、革鎧を着ていた。動ける、という意思表示だった。ナナが近づくと、グリムが口を開いた。


「昨日、なぜ返した?」


 勇者のことだった。


「今捕縛しても、宗教国家はすぐ奪還に来ます。勇者1人を人質にして得られるものより、失うものの方が大きい。今は戦力を温存する場面です」


「情報は取れたんじゃないか。洗脳の仕組みとか」


「それは取れません。今の私たちには洗脳を解く手段がない。解けないなら、拘束するだけで食料と警備の消耗になります」


 グリムが少し黙った。納得したのかしていないのか、顔からは分からなかった。ただ、それ以上は聞かなかった。


「今日、ミュリエに動いてもらいます」


 グリムが城壁の東を一度見た。それから頷いた。「分かった」



 宗教国家の先遣隊が動き始めたのは、昼前だった。


 昨日より前に出てきた。砲の射程が昨日の試射で確認できたのだろう。隊列の組み方も変わっていた。側面の守りはそのまま、正面の密度が上がっていた。


 ミュリエは城壁の裏側にいた。


 前日から城壁の外を歩いて、地形を確認していた。レンが案内した。今朝、ナナに「準備できたわ」とだけ言って、城壁の内側の定位置に戻った。


「始めますか?」とナナが声をかけた。


「もう少し。もっと前に出てきてから——混乱が広がる距離になったら」


 ミュリエの目が東の先遣隊を見ていた。計算している目だった。


 先遣隊が前進した。砲が展開した。正面の歩兵が隊列を組んで進んできた。距離が縮まった。


「今よ」


 ミュリエが両手を上げた。



 戦場の空気が変わった。


 宗教国家の先遣隊の前方——何もないはずの場所に、影が現れた。人の形をした影が複数。動いていた。旗を持っているように見えた。イグレアの方角から来るように見えた。


 先遣隊の前列が止まった。


 声が上がった。指示の声だった。方向が乱れた。前列が後ろに下がろうとした。後列が前に詰めようとした。ぶつかった。


 「存在しない敵」に向かって、矢が放たれた。炎が飛んだ。全部、空を抜けた。


「美しくない戦い方ね」


 ミュリエの声が隣から聞こえた。幻影を操りながら言っていた。指の動きに合わせて、影が増えた。先遣隊の側面にも現れた。包囲されているように見える配置だった。


 ナナは黙っていた。


また指を動かした。影が動いた。先遣隊の後方にも現れた。完全な包囲の形になった。


 先遣隊の動きが完全に止まった。



 そこへリシュアが動いた。


 どこにいたのかナナには分からなかった。気づいた時には、先遣隊の側面の指揮官らしき男の近くにいた。一瞬だった。男が崩れた。声も出なかった。


 指揮官が消えた。隊列がさらに乱れた。


 ナナが前に出た。


「黒閃斬!」


 魔力を刃に変えて広範囲に解放した。先遣隊の正面、密集している歩兵の隊列に叩き込んだ。隊列が崩れた。後退し始めた。


 ナナは止まらなかった。次の魔法を練った。通常の魔法で押し続けることができる。押し続ける。


「雷鎚陣!」


 地面に魔力陣を広げた。雷撃が先遣隊の足元を走った。散らばっていた兵がさらに散った。砲の護衛が薄くなった。


「エリス!」


 返事より先にエリスが動いていた。クルトの土の壁を盾にして前に出た。セルマが横で風を張った。砲弾の軌道がずれた。エリスが射程に入った。


 炎が砲の架台に走った。制御部分を直撃した。砲が動きを止めた。もう一門。また一門。


 3門が止まった。


 先遣隊の動きが完全に崩れた。後退の号令が上がった。


 ミュリエの幻影が消えた。戦場に残っていたのは、混乱した先遣隊だけだった。



 宗教国家の先遣隊が撤退した。


 砲を引きながら下がっていった。壊れた3門は置いていった。


 グリムが戻ってきた。ドーガが部隊を収めた。エリスが魔法を解いた。クルトの土の壁が崩れた。


 戦場が静かになった。


 ナナは東の方角を見た。後退する先遣隊の中に、勇者3名の姿があった。昨日の剣を持った者、槍の者、弓の者——3人とも後退の列の中にいた。幻術の混乱に巻き込まれながら、それでも整然と下がっていた。周囲の兵が乱れる中で、3人だけが崩れていなかった。


 (幻術が効かなかった——いや、効いたが対応した。それだけの力がある)


 ミュリエが隣に来た。


「どうだった?」


「先遣隊の混乱を作れました。砲を3門落とせました」


「勇者には効かなかったわね」


「見ていましたか?」


「ええ。幻影に向かって攻撃しなかった。3人とも。周りを見て、実体がないと判断して、無視していたわ」とミュリエが言った。少し口の端が下がった。「気に入らない」


 ナナは何も言わなかった。



 リシュアが戻ってきたのは、戦線が完全に引いた後だった。


 どこから来たのかやはり分からなかった。気づいたらグリムの隣に立っていた。グリムが一度だけ見た。何も言わなかった。


「指揮官は?」とナナが聞いた。


「生きている」とリシュアが答えた。「殺す必要がなかった」


「次の戦いでも出てきそうですか?」


「向こうが同じ指揮官を使うなら——もう一度できる。ただし同じ場所では動かさないだろう」


「そうですね」


 リシュアが少し間を置いた。「勇者を見た。3人とも——幻術の中で止まった。止まって、考えた。その後で動いた」


「ミュリエも同じことを言っていました」


「道具なら止まらない」とリシュアが言った。「止まって考えるなら、何かがある」


 ナナはリシュアの言葉を聞いた。


 (止まって考えた。命令の外で考えた。それとも、命令の中に「考えよ」という命令があるのか)


 まだ分からなかった。ただし、今日また一つ見えた。



 夜、報告を整理した。


 砲が合計5門落ちた。昨日の2門と今日の3門。先遣隊の指揮官を一時的に無力化した。先遣隊は後退した。


 損害はガリンが補強した城壁の第2区画に、さらに亀裂が入った。エリスが城壁外に出た際に砲弾が近くに着弾した。セルマの風でそれた。エリスは無事だった。


 グリムの打ち身は今日の戦いでまた負荷がかかっていた。本人は「問題ない」と言った。ナナは今夜中に休むよう伝えた。グリムは黙って頷いた。


 オズが食料と物資の消耗を計算してきた。「あと3日、今の規模が続けば補充が必要になります」と言った。「廃港の商人には連絡済みです」


「ありがとうございます」


 オズが出ていった。


 ナナは机の上の紙を見た。今日の収穫と課題を書き出した。


 幻術は先遣隊には効いた。勇者には効かなかった。リシュアの動きは機能した。砲は削れている。勇者3人が同時に前に出た場合の対処はまだない。


 ミュリエの言葉が残っていた。「気に入らない」


 ナナにも同じ感覚があった。ただし「気に入らない」ではなかった。もっと別の何かだった。言葉にする前に、もう少し見る必要があった。


 ナナは紙を閉じた。

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